サラブレッド競走馬の生産は本交配に限られていますが、世界に目を向けると、乗用馬はもちろんのこと、繋駕競走用のスタンダードブレッドも人工授精や受精卵(胚)移植で生産されており、アルゼンチンのポロ競技馬ではすでにクローン技術も臨床応用されています。残念ながらサラブレッドが主体である日本ではこのような技術が身近ではなく、十分に認知されていません。今回は競馬から離れますが、一般的なウマ生産技術のことも知っていただきたいという思いから、生殖補助医療(Assisted Reproductive Technology, ART)について解説いたします。ARTとはヒトの不妊治療分野でよく耳にする言葉ですが、獣医畜産分野においても胚移植(ET)、体外受精(IVF)、顕微授精(ICSI)など、おおよそ同様のことが行われています。
まず人工授精(AI)について解説します。AIはARTに含まれませんが、ウマ生産のごく基本的な技術です。メリットはなんといっても馬の輸送が不要であるということです。そのため、労力・コストは大きく削減され、品種改良に大きく貢献します。AIに用いられる精液には生精液、冷蔵精液、凍結精液の3タイプがあり、それぞれの受胎性や保存性などの特徴に応じて使い分けられます。冷蔵精液を用いる場合、一般的に48時間程度は受胎能力が期待できますが、時間的な制約から採取した精液は直ちに輸送、精液の到着後迅速なAIの実施が必要となります。一方、主に国外から優良な血統を導入する目的で用いられる凍結精液は、半永久的な保存が可能である反面、受胎率が低くなることや凍結保存のための特殊な設備が必要であるなどのデメリットがあります。国内でこのようなAIを実施するには獣医師もしくは人工授精師の国家資格が必要ですが、ウマ人工授精師の資格であれば北海道十勝牧場で取得のための講習会が3年毎に開かれています。また現在、国内で精液を入手するためには、乗用馬であれば遠野馬の里、重種馬であれば前述の十勝牧場から精液を取り寄せる他、フランスからの輸入精液を販売する業者(現在国内では3社のみ)を利用する必要があります。
ウマARTの中で最も一般的に行われているのがETです。これは母馬(ドナー)を妊娠させ、受精後1週間程度でその胚(受精卵)を回収、代理母(レシピエント)に移植するという技術です。優秀な競技馬は15-20歳あたりまで競技および騎乗者の育成に活用されるため、そこから繁殖生活を始めても高い受胎性は望めませんし、産駒数も限られてしまいます。しかし、ETであれば競技生活を送りながら産駒を得ることができるため、既に欧米ではハイクラス・良血の現役競技馬に対して実施されています。この技術の難点は、ドナーとレシピエントの発情周期が一致している必要がある点です。欧米の大規模なレシピエント牧場では繋養頭数が数百頭にも及ぶため、常に最適なレシピエントを選ぶことができますが、レシピエント候補馬の繋養頭数に制限がある日本でETを実施するためには、ドナーとレシピエント双方の発情を同期化するなどの工夫が必要となります。現在、日本でウマのETを実施しているのは、唯一帯広畜産大学のみです。
体外(シャーレ上)で卵と精子を受精させる手法であるIVFはヒトでは最も一般的なART技術ですが、ウマの精子は体外では卵細胞を覆う透明帯を通過することができないため、実用的な方法ではありません。また、ICSIとはこのIVFをさらに発展させた技術になり、マニピュレーターという専用器具を用いて精子を卵細胞に直接注入する方法のことを指します。精子を注入した受精卵は、実験室内で1週間程度培養した後にレシピエントの子宮内に移植します。ETが1度に1つの胚しか移植できないのに対し、ICSIでは1度に10個前後の卵を採取できること、さらにその採卵処置を最短2週間ごとに繰り返すことができることから、短期間に多くの産駒をとることが期待できます。また妊娠が困難な高齢馬から産駒をとることができる点も大きなメリットです。一方でこの方法は卵巣から卵細胞を吸引回収し、人工的に受精させた受精卵を培養する必要があるため、ETに比べて高い技術やコストが要求されます。現在、国内でICSIを行える施設はありません。
今回ご紹介したウマARTは、欧米を中心に既に世界各国で研究・実用化されている技術です。この分野において日本は世界に大きく遅れをとっていますが、2017年にフランスからの凍結精液輸入が解禁されたことでハイクラスの乗用馬生産に活路が見出されました。日本でこれらの技術を用いた乗用馬生産を根付かせるためにはまだまだ多くの課題がありますが、今後益々発展し、我が国のウマ産業のさらなる発展に繋がることが期待されます。
ドナーから胚を回収する様子(ケンタッキー大学にて)
ドナーから回収された胚
日高育成牧場 生産育成研究室 村瀬晴崇