2020年5月28日 (木)

根室・釧路・十勝地区での馬産の発展

No.161(2016年12月15日号)

  

 以前に本欄で日高、胆振各地区の馬産の発展について紹介させていただきました。今回は標記地区について触れてみたいと思います。

  

この地区への馬の移入

 資料によりますと、様似以東は峻険な日高山脈があり寛政10年(1798年)までは馬が通れず、馬の飼養が無かったとされています。幕府によるルベシベツ・ビタタヌンケ(現在の広尾町内にある地名)間の山道や様似山道、猿留山道などの開削により様似から釧路まで馬を通すことができるようになりました。釧路市史では釧路に馬が入ったのは寛政11年としています。根室市史によると根室地方に馬が入ったのは文化6年頃(1809年頃)とされています。十勝地区に馬が組織的に導入されたのは比較的新しいもので、帯広市史によると文化年間に襟裳経由で道東地区に馬が入った後、各場所に備馬を配布していますが、「この備馬は海岸線を往来したにとどまった。それ以外に道路がなかったばかりでなく、国防上その必要がなかったのであろう。」と記述された状況でした。その後、明治16年に下帯広村(現帯広市)に入植した衣田勉三率いる晩成社が明治19年当縁郡当縁村生花苗(現大樹町)に牧場を開設したのが十勝における民間牧場の創始と市史に記載されています。十勝の開拓が進むにつれ十勝川を利用した船運が進み、十勝川上流とさらに内陸部(足寄、本別など)の物資の駄送のため多くの駄馬を必要としました。 

  

明治維新後の馬匹改良

 明治維新前の北海道各地区の経営はいわゆる「場所」を拠点として行われていました。「場所」は主として海岸線に点在し、主な輸送手段は海運でした。馬はこれらの場所間の輸送連絡用に使用されました。当時の北海道の馬は以前に導入された東北産の馬が劣悪な飼養環境のため矮小化したものと考えられます。一方、当時の北海道の道路事情はとても厳しいものがあったのですが、小挌だが粗食に耐える土産馬は厳しい峠越えや深い林の間などではとても有用であったと思われます。しかし、開拓時代にはプラウによる畜耕や切り出した木材の輸送には非力であり、その改良が急務となります。明治維新後、開拓使は明治2年(1869年)、根室開拓使出張所を設け東北海道経営の策源地とし、道東地区での発展は根室が一番でした(新北海道史より)。しかし、その経済は漁業を主体としたものでした。そこで開拓使はこの地で農・牧・養蚕などの試験を行ってその進展を図っています。

 家畜の改良のためには国内外から種畜の輸入・移入を行う必要があります。そのため開拓使は明治5年新冠牧馬場、翌年の登別牧馬場、そして明治8年には根室牧畜場を開設します。根室牧畜場は前年に萌様(根室市立花咲小学校付近)および穂香の根室官園を改変したもので、釧路町史によると米国から輸入した種馬や南部種馬により積極的に馬匹改良を行いました(写真1)。1_8写真1

 その後、根室牧畜場は一旦民間に売却、その後当時和田村にあった屯田兵村の共同管理となります。再び民間に売却後所有が移り、渋沢栄一が興した合資会社有終会に移管されます。同牧場の馬部門はその後昭和13年(1938年)に鐘ヶ淵紡績に売却され戦後まで馬産に貢献しました(渋沢社史データベースおよび「根室の馬産)より)。昭和初期、生産馬が新冠御料牧場にアングロノルマン種の種馬として購買された記録も残っています。

 この地区での馬産の発展を促したのは他の地区と同様に、そもそも馬の需要そのものが増加したこと、さらにそれに対応できる大規模な土地の開拓が可能となったことです。明治30年、北海道国有未開地処分法(明治41年改正)により多くの牧場が出現しました。池田農場(農場主は旧鳥取藩の池田仲博侯爵と池田源子爵)は明治32年北海道庁に出願し種牡馬の貸し付けを受け自己有馬だけでなく、地域の馬匹改良にも着手しています(池田町史より)。

  

この地区の馬産の特徴

 明治維新後、北海道における馬匹改良は積極的に進められました。北海道農業発達史では日露戦争に徴発(ヒトでいう召集)された日本馬について「北海道産馬第一位にして奥州産馬之に次ぎ」とする資料を提示してあります。こうなった原因として同書は「まず馬匹の最大の需要者である農家の欲する馬は重種系であり、したがって、生産者が競って重種系を生産した。」としています。農地の開拓を進めたことで北海道の農家の経営規模は他府県に比べ大きくなり、要求される輓曵力も大きくなりました。また材木・石炭の輸送などにも大型馬が必要とされていました。

 これを助長する動きとしては軍馬補充部の設置があります。まず、明治33年白糠に釧路支部が、明治41年標茶に川上支部、明治42年本別に十勝支部と矢継ぎ早に設立され、軍馬購買が盛んとなっていきます(写真2)。

 また明治38年に馬匹改良30年計画(いわゆる馬政第一次計画)が立案され、これにより日高(明治40年)と十勝(明治43年)の種馬牧場が設立されました。この計画では「適地に適種を繁殖」させるため種牡馬配置に考慮がなされました。「四囲の関係と既往の実績を考査し」日高地区は乗馬・軽輓馬、十勝・釧路・根室・北見では軽・重の両輓馬を暫定的な種牡馬配置としています。2_6写真2

「この地域の血統を受け継いだサラブレッド」

 明治9年に事業を開始した「真駒内放牛場」は明治19年に北海道庁種畜場となり、馬匹の改良も奨励しました。この牧場が明治36年に米国より輸入した馬の中に牡馬ラピアス、牝馬チップトップ(いずれもサラブレッド種)がいます。この交配により明治41年に牝馬竹園が種畜場で生産され、この竹園と十勝種馬牧場に創立当時からいる種牡馬イボア(サラブレッド種)との交配により大正5年(1916年)に牝馬玉姫が生まれます。幕別町にある「新田の森記念館」の資料によると、この玉姫を購買したのは秋山好古で、秋山同様伊予松山出身で親交があり池田町で牧場を開いていた新田長次郎氏に預けたとされています。秋山好古大将伝記刊行会が発行した本によると退役後、故郷の北豫中学の校長であった秋山好古は毎年夏になると新田牧場を訪れていますので、その都度玉姫に会うことができたでしょう。この玉姫の孫ホシホマレは新田牧場産で昭和14年第2回オークスを勝っています。馬主は長次郎氏の子息愛祐氏。そして玉姫の5代後に第34回日本ダービー優勝馬のアサデンコウが出ます(写真3)。3_5写真3

 
  

((公財)BTC軽種馬育成調教センター 場長 髙松勝憲)

輸送と抗菌薬が腸内フローラに及ぼす影響

No.160(2016年12月1日号)

 

はじめに

 草食動物であるウマは、炭水化物やタンパク質を小腸で吸収し、繊維質の分解によって産生された揮発性脂肪酸やビタミンなどを盲腸・大結腸で吸収します。その際、繊維質の分解やビタミン産生などには、腸内に存在する細菌(腸内細菌叢=腸内フローラ)が深く関わっています。その他にも腸内フローラには病原性のある細菌の競合的排除など重要な役割があり、そのバランスが崩れると下痢症や腸炎の発症につながる可能性があります。そのため、正常な腸内フローラを保つことは馬にとっては非常に重要です。腸内フローラへ影響を与える要因としては、調教やレース、輸送などのストレス、抗生剤の投与や手術などさまざまありますが、今回は輸送と抗生剤の関連性について、JRAが行っている研究をご紹介したいと思います。

  

腸内フローラ解析方法

・細菌培養による解析

 様々な培地や発育条件で糞便を培養し、それらの培地で発育した細菌の種類や菌数を測定して腸内フローラを明らかにする以前から用いられている方法です(図1)。腸内で生きている菌のみを検出し、各菌数をそれぞれ測定することができます。しかし、腸内フローラを構成する細菌は多様なため、中には培養できない菌が存在する場合や細菌の同定が困難な場合も多く、正確に腸内フローラを把握できないことがあります。1_7図1 様々な培地を用いた細菌培養法(出典:腸内菌の世界, 叢文社, 1980)

 

・次世代シークエンサーによる解析

 新しく用いられるようになった方法です(図2)。すべての細菌が持つ特定の遺伝子を標的とすることで、培養できない菌も検出し、腸内フローラ内の細菌を比率として見ることができます。しかし、細菌の遺伝子があれば検出されてしまうため、死んでしまった菌も反映されてしまう可能性や、実際の菌数を測定できないこと、解析には高額な機器が必要なことというデメリットもあります。2_5図2 次世代シークエンサー Ion PGM (Life Technology社)

 

JRAが行っている研究について

 近年、JRAでは所属競走馬において輸送後の腸炎発症頭数が増加傾向にあります。その背景としては、輸送頻度の増加や輸送前後で発症した疾患、輸送熱予防のための抗生物質など抗菌薬の予防的投与などの影響が考えられます。その抗菌薬の予防的投与が輸送前後において腸内フローラへ与える影響について上述の2つの解析法を用いて研究を行っています。

 毎年4月下旬に千葉県船橋市にある中山競馬場でブリーズアップセールが行われています。そのセールへ上場する育成馬は、北海道浦河郡浦河町にある日高育成牧場から中山競馬場へ、陸路とフェリーを使い約25時間かけて輸送されます。その輸送直前に輸送熱予防に使われる抗生剤(マルボフロキサシン)の投与群(3頭)と非投与群(5頭)を作り、腸内フローラの変化を調査しました。輸送前後の糞便の状態を確認するために、輸送7日前、4日前、1日前、到着翌日、到着3日後の計5回、直腸内の糞便を採取して上記の解析を行いました。結果として、細菌培養による解析では、大腸菌などの腸内細菌科細菌やブドウ球菌などの菌数が増加する傾向が認められました。次世代シークエンサーによる解析では、8頭中6頭において輸送後に何らかの腸内フローラの変化が認められました(図3)。しかし、これらの変化には、抗生剤の投与の有無との関連は認められませんでした。3_4図3 次世代シークエンサーによる解析結果の一例

 

最後に

 今回の調査によって、長距離輸送は腸内フローラへ何らかの影響を与えることが明らかとなりました。しかし、輸送後に発熱した馬は1頭いたものの下痢症状を示した馬は認められなかったことから、今回検出された腸内フローラの変化は、直ちに下痢症や腸炎の発症につながるわけではないことが確認できました。また、抗生剤の投与の有無との関連が認められなかった理由としては、輸送による変化が大きすぎるため、輸送直前の抗生剤投与の影響が隠されてしまった可能性なども考えられます。

 今後は、どのような腸内フローラの変化が下痢症や腸炎の発症リスクとなるのかなどの疑問に答えていくために、さらなる研究を進めていく必要があると考えられます。

  

(日高育成牧場 業務課 水上寛健)

装蹄師の養成について

No.159(2016年11月15日号)

             

 

『装蹄師になるためには、いったいどうしたらよいのでしょうか?』

 日本で唯一、装蹄師の養成教育を行っている装蹄教育センターで、昨年まで技術指導を担当させていただいていた私、竹田和正がこの疑問にお答えします。

 結論から申しますと、公益社団法人 日本装削蹄協会が約1年間にわたり全寮制で行っている装蹄師認定講習会で専門的な学科と実技を学んだ後、装蹄師認定試験(2級認定試験)に合格して、装蹄師の資格(※1)を取得することでスタートラインに立つことになります。そのためには、まずは募集定員16名という狭き門を突破し、この認定講習会に入講する必要があるのです。

 装蹄師認定講習会が行われる装蹄教育センターは、栃木県宇都宮市にあり、設立されてから22年の間で、延べ316名の認定装蹄師を現場に輩出しています。(※2)装蹄師の「学校」と聞くと、馬の取り扱いや乗馬の経験がないとだめなのかと思うかもしれませんが、全くそのようなことはありません。認定講習会の中で、馬との接し方や騎乗、装蹄師になるために不可欠な解剖学や運動学などの学科、1本の鉄の棒から蹄鉄を作る鍛冶技術、そして、実際に馬の蹄を削ったり、蹄鉄を装着したりする装蹄技術を学ぶことができるのです。また、様々な分野の専門講師による特別講義、馬産地北海道での研修、競馬場やトレセンの見学などもカリキュラムの中に組み込まれているので、とても内容の濃い講習会となっております。

 センター卒業後は、JRA、トレーニングセンターや全国の競馬場、乗馬クラブ、生産地などで装蹄師として働くことになります。その求人は全国から装蹄教育センターに集まっており、現在、修了者の就職率は100%です! しかし昔から、「1人前の装蹄師として信頼されるまでには最低でも10年は必要だ!」と言われているように、この装蹄師認定講習会を修了し、資格を取得してもすぐにプロとして仕事の依頼をされるのは皆無と言えます。まずは見識豊かな先輩装蹄師の下で働きながら経験を積み、応用技術を蓄積する必要がありますが、その大切な基礎となる部分は装蹄教育センタースタッフが、熱意を持って指導するので十分に作ることが出来るでしょう。

 装蹄師の仕事は決して楽ではありません。しかし馬の足元を支える重要な仕事なので、とてもやりがいがあります。どうでしょう? ほんの少しでも興味が沸いたら、すぐに日本装削蹄協会のホームページ(http://sosakutei.jrao.ne.jp)を検索してみてください。そこには、歴代の講習生の1年間の講習会の様子や寮での生活などがわかる講習生のブログのコーナーもあるので、ぜひ覗いてみてください!!

 また、教育センターでは、装蹄や造鉄が体験できるオープンキャンパスやフットケアセミナーなども行われておりますし、実際に講習生の実習を見学することや現役装蹄師のお話を聞くことも可能です。最初に狭き門といいましたが、近年は、受験者数が減少傾向にあるので、まさに今が装蹄師になるチャンスといえます。

 さあ!!あとはあなた次第です。ぜひこの技術を身につけ、一緒に馬サークルを盛り上げて行こうではありませんか? 同じ装蹄師として仲間が増えるのを楽しみにしています。1_6

 

(※1)2級認定資格を取得後4年以上経過したら1級資格の試験を、さらに1級取得後9年以上経過したら指導級の試験を、それぞれ受験できます。その昇格試験に合格すると上級の資格に昇給します。

 

(※2)装蹄教育センターが設立される以前は、東京世田谷の駒場学園高等学校装蹄畜産科装蹄コース(3年間)、長期講習会(6ヶ月)、短期講習会(2週間)などがありました。

 

 

                      (JRA日高育成牧場・専門役 竹田 和正)

 

胎盤炎

No.158(2016年11月1日号)

 

 繁殖シーズンからの牧草作業、セール、そして離乳も落ち着き、生産者の皆様はようやく一息つける時期かと推察します。この時期、毎日繁殖牝馬を管理していても胎子の発育を感じにくいものですが、お腹の中で着実に成長しています。しかし、妊娠中は常に流産のリスクがあり、実はおなかの中では流産に向けて異常が進行しているかもしれません。本稿では感染性流産の主な原因である「胎盤炎」についてご紹介いたします。

 

胎盤炎とは

 胎盤とは我々哺乳類のみがもつ組織です。母馬にとって異物である胎子を許容し、栄養供給、ガス交換、老廃物の除去、妊娠維持に必要なホルモンの分泌など多くの役割を担います。胎盤に感染・炎症が起こると、上述したさまざまな機能が阻害され、胎子の発育遅延や死亡に至ります。

 胎盤炎は、感染性胎盤炎あるいは上向性胎盤炎とも言われます。つまり、細菌や真菌(カビ)といった病原微生物が外陰部から頚管を通って(上向性に)子宮に侵入し、胎盤を侵します。主な原因菌は大腸菌や連鎖球菌、アスペルギルスといった一般環境中にいるものです。高温多湿な日本では海外よりカビの割合が多いのですが、カビは細菌よりも治りづらく、やっかいです。そのため、妊娠馬にはカビで汚染された寝藁や乾燥を与えないようにしましょう。

 胎盤炎は時間をかけて進行します。陰部滲出液、乳房腫脹といった異常が認められる時点では、すでにお腹の中の病態は進行しています。そのため、流産を防ぐためにはこのような症状を示す前に異常を診断し、治療を始めることが重要となります。

 

早期の診断が重要

 胎盤も炎症が起きると腫れるため、超音波検査で胎盤の厚みを計測することで診断できます。この指標はCTUP(Combined Thickness of Uterus and Placenta:子宮胎盤厚)と呼ばれ、エコーを用いた直検で簡単に計れます。また、ホルモン検査も有効です。胎盤や胎子の異常はホルモン代謝異常を来たすことが多いため、母馬の血液中ホルモンを測定することで早期に異常を診断できます。しかし、ホルモンは個体差が大きいため、1回の測定では微妙な判定はできません。そのため、妊娠7ヶ月以降において継続的に測定(モニタリング)することにより、より正確な診断が可能となります。妊娠馬全頭にホルモン検査を行うのは現実的ではないかもしれませんが、過去に流産歴のある馬だけでも検討してみてはいかがでしょうか。

 

胎盤炎の治療

 胎盤炎には治療が必要です。感染に対して抗菌剤(主にST合剤)、炎症に対して抗炎症剤(主にバナミン)、陣痛抑制剤として子宮収縮抑制剤(リトドリン製剤)や黄体ホルモン剤(プロゲストンやレギュメイト)、海外では抹消血管拡張剤(ペントキシフィリン)が用いられます。ただ残念ながら、現状では確実に流産を防げるわけではありません。十分な治療成果が得られない理由としては、発見の遅れ、注射剤を含めて十分な投薬が難しいこと、真菌に対しては抗菌剤が効かないこと、ヒトのように絶対安静ができないことなどが挙げられます。

 

 さまざまある流産原因の中で、胎盤炎は感染実験を含め、比較的研究が進んでいると言えます。まだまだ十分ではありませんが、流産を予防するためには、新しい知見を積極的に利用してみることが必要です。生産者の皆様には新しい検査法・治療法についてのご理解よろしくお願いします。

 
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写真1 感染胎盤。破膜部(上方)が変性して白くなっている。右の胎盤は底側(写真左側)に広く膿が付着している。

 
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写真2 正常なCTUP像。妊娠後期には胎盤が発達し、子宮と胎盤の2層構造が確認できる。異常時には胎盤の肥厚や剥離が認められる。

 

 

(日高育成牧場 生産育成研究室 村瀬晴崇)

当歳馬の放牧草の採食量

No.157(2016年10月15日号)

  

 発育中の若馬は、放牧により様々な恩恵を得ることができます。放牧地での自発的な運動は、基礎体力の向上、心肺機能および骨や腱の発達に有用です。また、集団で放牧することにより、母馬以外の他個体に接し、社会の一員となることは、将来、競走馬として競っていくためには重要な役割を果たしていると考えられます。

  

放牧草はウマ本来の飼料

 放牧地の牧草は、栄養がバランスよく含まれており、若馬にとって非常に優れた飼料であるといえます。馬が24時間放牧されているとき、平均で12.5時間採食することが報告されており、季節によっては、放牧草を16-17時間採食している場合もあります。このように、日中のほとんどの時間を採食に費やしていることから、ウマは”不断食の動物”と呼ばれます。ウマの胃は体のわりに非常に小さく、一度にたくさん食べることができません。したがって、少しずつの量を、途切れなく食べるのが、ウマ本来の食べ方であるといえます。

  

子馬にとっての放牧草

 生まれた直後に、子馬が栄養として摂取するのは母乳のみです。生後すぐから母馬の真似をして牧草を食べだす場合もありますが、ほとんどは栄養としては利用できていないようです。ウマが牧草の繊維成分を栄養として利用するには、盲腸および結腸内の繊維分解性の微生物が必要となります。生まれたての子馬の消化器官には、この微生物がほとんど存在しておらず、成長の過程において経口で取り込んでいくとされています。

 微生物を取り込むための顕著な行動が、母馬の糞を食べることです。食糞行動は、生後1週間くらいにみられますが、全ての子馬が実際に食糞をしているのかよく分かっていません。仮に食糞していなくても、子馬が口をつける可能性のある、牧草や敷料に糞由来の微生物が付着しているため、いずれは消化管内に繊維分解性の微生物を獲得することが可能です。

  

子馬の哺乳量

 子馬の乳の摂取量は、約2ヵ月齢から減少していきます(図1)。生後すぐの時期は、15~20分おきに哺乳しますが、この時期になると、哺乳回数は1時間に1回もしくは2回程度になっています。成長に伴う哺乳量の減少は、哺乳回数が減ることによります。子馬の成長に伴い必要となるエネルギー量は、増加していきます。2ヵ月齢以降、哺乳量が減る一方で、放牧草の採食量は増加していきます。子馬はいったいどれくらいの量の放牧草を採食しているのでしょうか?1_4図1

 

放牧草の採食量を調べる方法

 『放牧草の採食量はどうしたら分かるの?』という疑問に、少し触れておきましょう。牧草には、ウマがほとんど消化することのできないリグニンと呼ばれる繊維が含まれています。放牧草から摂取したリグニンは、消化できないため全て糞とともに排泄されます。糞中にどれだけリグニンが含まれているのかを調べると、リグニンの摂取量が分かります。

 ウマが食べている個所の牧草を中心にサンプリングし、牧草中のリグニン濃度を調べます。そして、(リグニン摂取量)÷(牧草中のリグニン濃度)を計算することで、放牧草の摂取量が推定できます(図2)。ただし、1日の放牧草の採食量を知るためには、1日に排泄する全糞を採取することが必要となります。2_3図2

 

子馬の放牧草の採食量

 図3に、放牧草の採食量を示しました。5週齢(約1ヵ月齢)までは、放牧草の乾物摂取量は0.5kg以下であり、ほとんど採食していないと言えます。乾物とは、水分を除いた固形成分のことです。例えば、放牧草の場合、季節や草種により変化はありますが、水分含量が4分の3、固形分含量が4分の1程度であり、原物の放牧草を1kg摂取したとき、乾物としては0.25kg摂取したことになります。7から10週齢までの放牧草の乾物摂取量は1kgであり、10週齢以降から採食量は増加していきます。17週齢(約3.5ヵ月齢)で放牧草の乾物摂取量は、2kgに達します。

 図3は10時間放牧したときの採食量ですが、この時期の子馬は、成馬に比べて睡眠時間が長く、昼夜放牧の場合でも採食量はあまり増えないことが予想されます。この時期の乳と放牧草から摂取するカロリー量は、必要量を満たしていますが、銅や亜鉛などの微量ミネラルは必要量を満たしていません。したがって、この時期より以前(理想としては2ヵ月齢)から、クリープフィードにより、これらのミネラルを補給する必要があります。3_3図3


 

(日高育成牧場 生産育成研究室 研究役 松井朗)

蹄充填剤の応用

No.156(2016年10月1日号)

 

蹄充填剤とは

 馬の蹄は1ヶ月に約10mm程度の生長をします。しかし、運動をすることで蹄は磨り減ります。蹄の伸びる量よりも減る量が多くなると、知覚部まで達し疼痛を伴います。そのため、蹄鉄は蹄の保護を最も大きな目的として装着します。

 一般的に蹄鉄は蹄釘(ていちょう)といわれる釘を使って装着します。しかしながら、蹄壁欠損などにより蹄釘での装着が困難になるケースが多くあります(図1左)。そのような馬の場合には、蹄充填剤が無かった頃には休養を余儀なくされ、蹄が自然と伸びるのを待っていました。

 しかし、蹄充填剤の一つであるエクイロックス(Equilox社製)が開発され、エクイロックスで蹄壁を補修し、そのエクイロックスに蹄釘を打ち込み蹄鉄を装着する技術が普及しました(図1右)。この方法により、多くの馬が休養することなく継続して運動が出来るようになりました。1_3 図1 左:蹄壁がはがれて蹄釘による蹄鉄の装着は不可能

   右:蹄充填剤エクイロックスを蹄に塗り、蹄釘にて蹄鉄を装着

 

蹄充填剤の応用

 蹄充填剤は、蹄壁の補修剤として開発されました。しかしながら、現在ではその用途は多岐にわたります。そのため、用途に合わせた様々な蹄充填剤が開発されています。そこで、蹄充填剤の使用方法について紹介していきたいと思います。

  

・蹄鉄の装着(接着蹄鉄)

 蹄鉄は基本的には蹄釘を使用し装着されますが、蹄釘を使用して装着できない場合には、蹄充填剤を使用して蹄鉄を装着します。この方法で蹄鉄を装着することを接着蹄鉄とよびます(図2)。接着蹄鉄は、蹄壁欠損によって蹄釘での蹄鉄の装着ができない蹄にかぎらず、クラブフットなどの蹄釘による蹄鉄の装着が困難な場合にも選択されます。蹄釘を使わない安全な装着方法ですが、蹄機作用を抑制することもあるため、使用する期間などには注意が必要です。2_2 図2:接着蹄鉄 蹄釘を使用せずにエクイロックスにて装着

 

・肢軸矯正

 子馬のうちに、肢軸を矯正し負担の少ない肢勢にすることは、競走馬としてトレーニングをしていく上で故障のリスクを減らす重要なことです。蹄充填剤が普及するまえは削蹄による矯正のみで対応することがほとんどでしたが、蹄充填剤を使用して、蹄に張り出しをつけることで(図3)、より大きな矯正力を発揮できるようになりました。3_2 図3:肢軸の状態にあわせて蹄に張り出しをつけて改善に努める

 

・蹄底に対する保護やサポート

 蹄充填剤の中には蹄底に充填するタイプもあります。蹄底は地面からの圧力を受けるため、エクイロックスなどの硬い蹄充填剤は使用できません。そこで、蹄底に使用できるように柔らかいエクイパックなどの蹄充填剤が開発されました。蹄底への充填は蹄底が薄く痛みがあるときに保護のために使用します。また、蹄葉炎などの蹄骨が沈み込んでくる症状があるときに地面側から支えるサポートとして使用します(図4)。この方法が普及したことにより以前よりも完治する蹄葉炎の馬が多くなりました。4_2 図4:アドバンス・クッションサポートによる蹄底の充填

 

まとめ

 蹄充填剤は用途に応じて硬さや接着力の違う様々な製品が開発されています。馬の症状にあった蹄充填剤を正しく使用することで、様々な蹄病や肢勢に対応することが可能です。また、現在も新しい蹄充填剤が開発されています。それらの特徴・性質を十分に理解して使用する事で、より多くの症例に対して、今よりも適切な処置を施せるようになるかもしれません。

(日高育成牧場 業務課装蹄係  諫山太朗)

競走馬で利用できる最新の心拍計について

No.155(2016年9月15日号)

これまで、講演会や『強い馬づくり最前線』において調教中の心拍数を利用した競走馬の体力検査法について紹介してきました。そこで今回は、調教時の心拍測定に必須となる最新の心拍計を紹介します。

 

キーワードは『GPS』と『クラウド化』

 JRAで馬の心拍測定に腕時計型心拍計を利用し始めたのは20数年前のことです。当時、人用の心拍計を馬で利用するために、心拍センサーに電極をハンダ付けしていたことを懐かしく思い出します。

 現在、運動中の心拍数を測定できる心拍計は多くのメーカーから販売されています。どれも基本的な構成は20年前と変わっておらず、体に装着する心拍センサーと腕時計型心拍計で構成されています(写真1)。一方、大きく変わったのは『GPS』と『クラウド化』です。GPSは、皆さんご存知の通り衛生電波から位置情報を受信する装置で、同時に走行軌跡や距離、速度などを記録することができます。この機能により、以前は走行速度をストップウォッチで計測していたのですが、屋外ではその必要がなくなりました。もう一つの特徴が、『クラウド化』です。クラウドとは“cloud=雲”から派生した“クラウドコンピューティング”の略で、データをインターネット上に保存する方法を意味しています。つまり、これまでは測定したデータを自分のパソコンにダウンロードしていたものが、クラウドではUSB経由で接続したパソコンからインターネット上のホストコンピュータに保存し、インターネット経由でデータを利用することになります。クラウドには、インターネットに接続できる環境があればどこでも利用できるという利点がある反面、接続できなければ全く利用できないという弱点もあります。1_2 写真1 腕時計型心拍計(右:Polar RC3-GPS)と心拍センサー(左)

Polar M400

 現在多くの心拍計が販売されていますが、その中で日高育成牧場ではPolar社製“M400”という製品を利用しています(写真2)。その理由として、Polar社は心拍測定時に使用する馬用の電極を販売しており、センサーを加工することなく馬に装着できることが大きなポイントです(写真3)。また、Microsoft Excelなどでデータ解析する場合には心拍数や速度の生データ(数値のデータ)が必要になるのですが、私が知る限りクラウド化された心拍計の中で生データをダウンロードできるのはPolarだけで、十分な性能を有し比較的安価なのがM400です。

 使用方法はこれまでの心拍計と変わらず、測定終了後はUSBケーブルでパソコンに繋ぐだけで自動的にホストコンピュータにデータを保存され、インターネット上で測定結果を確認することができます(写真5)。実際に使用した感想としては、データ保存に少し時間がかかり、改めて解析用の生データをダウンロードするのは面倒な感じがしますが、それ以外は非常に簡便で使いやすくなったと感じています。

2 写真2 Polar M400

 3 写真3 馬用の電極(上:電極型、下:ベルト型)

 4 写真4 ベルト型電極装着方法

ベルト装着時に電極部分2箇所(矢印)をお湯で濡らし、この上に通常の装鞍を行います。

 5 写真5 インターネット上に表示される測定結果

心拍数と速度だけではなく、走行軌跡や総距離が表示されます。

 

次世代の心拍計

 ここで、Polar Team Proという製品を紹介します(写真6)。これは人のプロスポーツ選手用に開発された製品で、Jリーグなどのプロチームで利用されています。最大の特徴は、心拍センサー内にGPSとデータ記録装置が組み込まれており、腕時計を持つことなく心拍数と走行速度を測定できることです。先日メーカーの方にご協力いただき競走馬でデモンストレーションを行ったのですが、腕時計が不要な分M400よりさらに利用しやすくになっていると感じました。現在は競走馬用のソフトウエアが無く馬での応用はまだ先な感じはしますが、開発が進みハロンタイムや体力指標を簡単に解析できるようになれば、競走馬の体力や体調を知るための便利なツールになるのではないかと期待しているところです。6

写真6 Polar Team Pro

Team Pro本体(上・中)およびデータ転送・充電用ドック(下)

  

おわりに

 心拍数を用いた競走馬の体力検査は最初は難しいかもしれませんが、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』という言葉にもあるように、愛馬の状態をより詳しく知るために心拍測定にトライしてみてはいかがでしょうか?

  

(日高育成牧場 生産育成研究室長 羽田哲朗)

2020年5月14日 (木)

大腿骨遠位内側顆ボーンシストに対する治療法について

No.154 (2016年9月1日号)

 

 

 

 2016年度の各種セリが開催され、売却成績は過去最高となるなど市場取引が盛況に行われています。第153回では大腿骨内側顆のボーンシストの概論について説明がありました。国内の一部のセリでは、レポジトリで膝蓋部X線画像の提出が任意で可能となり、生産者や購買者の皆様も、大腿骨遠位内側顆にできるボーンシストには注目されていることかと思います。今回はその治療方法について説明いたします。

 ボーンシストの治療法には大きく分けて3つの種類があります。まず初めに内科的保存療法である病変部位内へのステロイド投薬、2つ目は外科的治療法である関節鏡手術による病変部位の掻爬術、そして3つ目に比較的新しい治療法である螺子でシストを固定する方法です。

 

①内科的治療

 跛行が認められず大腿骨ボーンシストの直径が小さいものに関しては、そのまま陳旧化することもあり、無症状の場合は様子を見るのが一般的です。跛行を呈するものでは、休養期間中に過剰なエネルギー摂取をやめ、ミネラルの給与を適切に行うことで、より早い回復が期待できると言われています。跛行が顕著な場合には、運動や放牧を中止し、半年程の長期休養で跛行が改善すると言われていますが、調教再開と共に再び跛行を呈することがあります。そこでより積極的な内科的治療法として、コルチコステロイド製剤をシスト内に直接注入する治療法も行われています(図1)。この方法では、エコー機器やX線画像を用いて、もしくは関節鏡下で針の挿入部位を確認しながら薬剤を正確に注入することが求められます。1_7 図1 関節鏡下でのステロイドの注入(Diagnostic and surgical arthroscopy in the horseより抜粋)
  

②外科的治療

 重度の跛行が認められ、ボーンシストの直径が大きく深い症例では関節鏡手術による病巣部位の掻爬という方法も行われています(図2)。シスト内の変性した軟骨は自然には除去されないため、取り除くことで健常な軟骨下骨および関節軟骨の再生を促します。この方法は、予後は非常に良好ですが、関節面への侵襲も大きいため術後、半年程の長期の休養を要します。その後のリハビリにも関節疾患の併発を考慮する必要があり、ヒアルロン酸などを関節内に投与することもあります。

2_7図2 関節鏡下での掻爬術

 

③新しい治療法

 ボーンシストは、内科的、外科的治療によっても完治までに時間が掛かる疾患です。完治までの時間を短縮することを念頭に新たな治療法として提唱されているのが、シストに貫通するように螺子を挿入して、固定・補強するという治療法があります(図3)。この方法であれば、体重を支える関節面への侵襲がなく、関節炎への続発を予防出来ると考えられています。この螺子での固定によって、8割以上の馬で歩様の改善が報告されて手術から4ヶ月ほどで調教に復帰できると言われています。日高育成牧場でも、騎乗馴致の時期に跛行を呈する大腿骨ボーンシストの症例に遭遇し、螺子による内固定術を行いました。術後3ヶ月から、トレッドミルを用いてのリハビリを行うことができ、約半年後にはトレーニングセールに上場することができ、その後、同馬は中央競馬でデビューすることができています。3_4 図3 螺子固定挿入前、挿入後

 

最後に

 ボーンシストの発症率は海外の報告で1~3%と低く、調教を実施する前の若齢馬では、シストを保有していても跛行がみられないなど、頻繁に目にする病気ではありません。しかし、内科的および外科的治療でも難治性を示す場合も多く、約半年にもわたる休養を要するなど、経済的損失が大きい疾患のひとつに挙げられます。今後、これらの治療法を積極的に臨床応用し、効果を検討していくことが重要です。現在、日本国内における、大腿骨ボーンシストの発症率を生産地疾病のテーマとして調査中です。今回お伝えした情報も数年後には新たな情報に置き換わるかもしれません。そのような状況ですので、今後発信される情報についても引き続きご注目ください。

 

 

(日高育成牧場 業務課 診療防疫係 山﨑 洋祐)

大腿骨内側顆のボーンシストについて

No.153 (2016年8月15日号)

 

 

サラブレッドのボーンシストとは?

 ボーンシストとは、関節の軟骨の下にある骨が発育不良を起こし発生する骨病変です。レントゲン検査では関節面に接したドーム状のX線透過像として認めることができます(図1)。病変は、栄養摂取や成長速度のアンバランスなどの素因がある子馬において、関節内の骨の一部に過度の物理的ストレスが加わることで発生すると考えられています。そのため好発部位は、前肢の球節や繋の指骨間関節、肩関節、後肢の膝関節といった走行時に大きな力がかかる関節面の骨となります。特に、膝関節を構成する大腿骨の内側顆(図2)はボーンシストの好発部位となりますが、この部位に大きなボーンシストが認められる馬は、調教開始とともに難治性の跛行を呈することが多いことが知られています。1_6【図1】球節(中手骨遠位)のボーンシスト X線透過像(破線)と関節面への開口部(矢印)

2_6 【図2】左後枝の膝関節を斜め後方から見たCT像 丸囲み部分が大腿骨内側顆。ボーンシストの多発部位となる。
   

大腿骨内側顆のボーンシスト

 現在、北海道の全てのサラブレッド市場では、レポジトリーに後膝のレントゲン資料が、上場者の任意で提出できる様になりました。大腿骨内側顆のボーンシストが発生するのは、1歳の春から秋にかけてです。この時期の、まだ調教が始まっていない若馬では、跛行が認められることは少なく、セリに向けたレントゲン検査で初めて所見が発見されることになります。

 レポジトリーに提出される後膝のレントゲン写真は、図3に示した4方向になります。この中で、内側顆のボーンシストを発見し易いのは、図3-Dの屈曲 外-内側像です(図4)。その他の方向から撮影したレントゲン像では、シストの大きさや関節面の状態を確認することが出来ます。3_3【図3】レポジトリーにおける後膝のレントゲン資料(4方向)

A:尾-頭側像、B:尾外-頭内側像、

C:外-内側像、D:屈曲 外-内側像

4_2【図4】大腿骨内側顆のボーンシスト所見

左:大きなボーンシスト所見

右:小さな軟骨下骨の欠損(ディフェクト)所見

 

治療と予後

 シストには炎症産物が含まれており、物理的な刺激が加わり続けることにより病巣が広がってしまいます。跛行が認められない場合は、そのまま陳旧化する場合も多いのですが、跛行が認められる場合は、運動や放牧を中止し、しっかり症状が消えるまで休養させることが重要です。跛行の程度が重い場合には、全身麻酔下でシスト内にステロイド剤(抗炎症剤)の患部への直接投与やシストの掻披術を実施し、治癒を促します。いずれにしても、休養期間は3ヶ月から6ヵ月以上要することが多く、競走馬としてのデビューは遅れてしまうことになります。近年、新たな治療方法としてシストを跨ぐ様にスクリューを1本挿入する治療法が試みられるようになり(図5)、調教への復帰も早くなることが期待されています(詳細については次号で紹介する予定です)。5

【図5】内側顆のボーンシストへのスクリュー挿入術 ラグスクリューによりシストの安定化を図り、疼痛や炎症を緩和する試みが行われている。

 

最後に

 大腿骨内側顆のボーンシストは、発症すると予後が悪く、経済的な負担も大きな疾患です。現在、日高地区の獣医師で総力を挙げて、ボーンシストの発症要因や治療法の改良に取り組んでいるところです。生産者の皆様には調査へのご協力への理解と今後の調査結果にご期待いただければ幸いです。

 

 

(日高育成牧場生産育成研究室 研究役 佐藤 文夫)

胆振での馬産の始まり

No.152 (2016年8月1日号)

 

 

 

  

 

 以前に本欄で日高における馬産の始まりについて紹介させていただきました。今回は胆振地区について触れてみたいと思います。

 

明治維新以前

 12世紀以前には東北地方との交流により、北海道に馬が渡ってきたと考えられています。15世紀後半から始まる松前氏(改姓前は蠣崎氏)の統治において、北海道農業発達史1巻にある松前藩の調査報告書「蝦夷地巡覧記」では、寛政9年(1797年)に和人地全73村のうち46村で馬を所有していると記載されていますので、かなり広範囲に馬が飼養されていたようです。この馬たちは松前藩が行っていた商場知行制(家臣への交易権の付与)での各場所間通行駄送用であり農耕用ではなかったとされています。

 一方、1700年代後半以降、ロシア船の度重なる来航に危機感を抱いた幕府は北辺防備のため蝦夷地の整備を急ぐ必要がありました。しかし松前藩にはその統治能力の低さもあり荷の重すぎる事業のためほとんど進んでいませんでした。寛政11年1月、幕府は松前領であった東蝦夷地(太平洋沿岸および千島列島)の内、浦河以北を上地(直轄地)とし、次いで文化4年(1807年)西蝦夷地も上地し、直接統治することとしました。

 享和2年(1802年)、幕府は直轄領の政務をつかさどる遠国奉行の一つとして蝦夷地奉行(後に函館奉行、松前奉行、その後再度函館奉行と改名)を設置しました。虻田町史には羽太正養と共に初代奉行となった戸川安論が文化元年(1804年)に幕府に牧場開設を建議し、それが入れられて有珠地区のオサルベツ(長流別)の原野に馬牧建設を着手しました(写真1)。いわゆる有珠・虻田牧といわれる幕府の牧場は現在の豊浦町から伊達市黄金にいたる富川牧(虻田)、岡山牧(有珠)、平野牧(伊達紋別)、豊沢牧(黄金)の四牧の総称であり、すべてが開場したのは文化3年です。開始時は幕府から拝領した3頭の種牡馬と南部藩から拝領した4頭と買い入れた5頭の牝馬でしたが、文化6年には四牧合計で147頭との記載も見られます。生産された馬は官用の外は民間にも払い下げられました。文化10年には博打石(現松前町)で馬市が開催され、3歳牡馬(年齢は当時のもの)が60頭払い下げられました。購買者には南部、津軽の馬喰(家畜商)も参加して取引していると報告されています。相応の需要があったのでしょう。安政4年(1857年)からは亀田(現函館市北西部)で奉行所により毎年1回の馬市が開かれました。北海道農業発達史によると安政年間(1854~59年)には、馬は全道に分布し、その数は1万頭に達していたと記載されています。しかし馬格は矮小で弱体化しておりました。しかし蝦夷地経営の進展に連れて馬に対する需要は増大したことから幕府は種々の改良増殖策を講じ、これらは明治になっても引き継がれました。

 有珠・虻田地区の馬は文政5年(1822年)有珠山の噴火時の災害記録によると牧馬数は2500頭程度と記載されています。多分この数字が文書的には最も大きな数字でしょう。有珠・虻田牧は明治2年(1869年)10月に65年の歴史を閉じることになりますが、この時の牧馬数は600頭であり、廃止時には各地の希望者へ売り渡し、駅逓の備馬、あるいは開墾の特志者に下げ渡しされるなどされています。

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(写真1:洞爺湖町入江にある蝦夷牧跡)


 

明治維新以後

 幕府が大政奉還を願い出た慶応3年(1867年)10月以後も、北海道開拓は殖産興業だけでなく北辺防備を固める上でも新政府にとって重要な政策でした。そのため翌4年4月(まだ戊辰戦争さなか)、前述する函館奉行所に代わり北海道開拓を主管するための行政機関として函館裁判所の設置(後の函館府、さらに開拓使へと変遷)が決定しています。

 北海道の馬産の発達は開拓の歴史的発展と軌を一にしており、明治2年(1869年)7月に開拓使が設置されると、この役所が開拓をけん引することとなります。前述する有珠・虻田牧や浦河牧は廃止され、明治5年に新たに改良増殖目的で新冠に牧馬場を開設しました。翌6年には七重(現七飯)勧業試験場、登別牧馬場、8年には根室牧畜場が開設されています。

 北海道の開発が進むにつれ物資の輸送、特に木材などの搬出や畜耕のための馬の需要も増えてきました。馬産の大きな転換は明治30年(1897年)北海道国有未開地処分法(明治41年改正)により大規模な土地の開拓が可能となったことがあげられます。この施策により大小多くの牧場が開設されました。

 一例をあげれば、早来町史には明治32年植苗村字フモンケ(現富岡地区)に、札幌在住であった吉田権太郎氏が吉田牧場を創設するための土地の貸し付けを受けたと記載されています。また、早くから軽種馬の育成を始めていたとされ、町史では安平村長より支庁長への報告文内に「牧場開設以来主としてサラブレッド種を飼育」との記載やサラブレッド種牡馬の飼養も記載もあります。この牧場は現在も同地区に引き継がれています。

 変わった例としては将軍家や殿様が興した牧場もあります。開拓初期の明治2年、当時の太政官政府は諸藩士族、団体などの志願者に土地を分与するいわゆる「蝦夷地分領支配」を布告しました。胆振地方の人ならば、この言葉を聞けば伊達藤五郎邦成(亘理伊達藩主)や片倉小十郎邦憲(白石藩主)、石川源太邦光(角田藩主)の名前を思い出すでしょう。市名に名を残す伊達邦成一行は有珠郡に入植し開拓を進めますが、その指揮を執ったのは家老常盤新九郎(のち田村顕允と改名)です(写真2)。彼らが西洋農法を取り入れるために長流川下流に「開墾農社」、黄金蘂(現黄金)に「牛社」を開設しました。この牛社は後年、田村顕允が引き取り黄金蘂牧場(田村牧場)となりました。この牧場は明治43年にやはり仙台藩に縁のある高橋是清が取得し、現在の高橋農場へと受け継がれています(伊達市史より)。この高橋農場は日本中央競馬会から委託を受け、昭和42年までアラ系抽せん馬の育成を行っておりました(写真3)。

 さらに新白老町史には徳川牧場の名前が出てきます。15代将軍徳川慶喜の家督を継いだ慶久が大正7年に当時あった白老牧場を購入したものです。この牧場は昭和3年に吉田善助氏に譲渡されています。この牧場では当初より軽種馬の生産を行っておりました。吉田善助氏の父は前述の権太郎氏の兄、善太郎氏です。すなわちその父、善治氏は数々の名馬を産出している吉田姓の牧場のルーツとなります。

 北海道の馬産は馬耕や貨物運搬用の馬を主体として発展してきましたが、胆振および日高地区では例外的にかなり早くから軽種馬すなわち競走馬の生産がなされてきたといえます。

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(写真2:伊達市開拓記念館の庭にある田村顕允の胸像)

  

3_2 (写真3:伊達市黄金にある黄金蘂牧場跡)

  

  

(軽種馬育成調教センター場長 高松 勝憲)