乳母づけにおけるPGF2αの利用
馬生産において、分娩後の母馬の事故や育子拒否は一定の割合で起こり得ます。北海道では馬用人工乳が流通しており重宝されていますが、昼夜を問わない人工哺乳は労力負担が大きく、また子馬と人間の関係性に悪影響を及ぼすため、乳母を導入することが望ましいと言えます。乳母を導入する際にまず問題となるのが乳母づけです。自分の子ではない子馬に対して授乳を許容することはある意味自然の摂理に反する状況であり、乳母と子を同居させておけばよいというわけではありません。
一般的な乳母づけのポイント
伝統的な手法として乳母を壁に張りつける(図1)、メントール等で嗅覚を麻痺させる、子宮頚管を刺激する(分娩刺激の模倣)といったことが行われていました。乳母の適性として過去の出産、育子経験があることは必須条件で、当然温厚な馬が好ましいです。子馬のお腹を空かせておくことも重要です。実際の乳母付け時には乳房へ導く際に無理に顔や体を引っ張らず背中やお尻を優しく刺激して向かわせること、乳母の様子を見て子馬の安全を第一に対応することなどの経験に基づく繊細な対応が必要です。また、乳母が子馬を許容した後の様子を観察することも重要です。乳母が十分休めていなかったり、攻撃的にあったり、子馬がイライラしている場合には乳量が不足しているかもしれませんので、そのような際には乳量を増やす処置や子馬に固形飼料を与えるといった工夫が必要となります。
さて、ここから本題に入りますが、2019年の英国馬獣医協会(BEVA)学会においてPGF2αが母性惹起に有用であることが報告され、昨年の米国西海岸馬繁殖シンポジウム(WCERS)でも同手法の詳細が紹介されましたので、本稿でご紹介いたします。
BEVAにおける発表
イギリスの臨床獣医師であるBarkerらは2014-18年において本手法を21例に実施し、うち20例で成功したことを報告しました。21例の内訳は乳母付け17例、育子拒否4例で、失敗した1例は育子拒否のアラブ種でした。成功した20例のうち17例は1回の試みで、3例は2-3回の試みで成功しました。肝心の方法ですが、クロプロステノール(合成PGF2α)を平均1,000µg(750-1,500µg)投与し、20分ほど待って乳母付けをします。この投与量は一般的な黄体退行作用の4倍で、1回目に失敗した場合には2回目にさらに高用量を投与しました。子宮頚管刺激は実施されませんでした。乳母のみならず、育子拒否した馬に対しても有効であったというのは興味深い点です。
WCERSにおける発表
WCERSではベルギーのゲント大学Peter Daels教授が本手法について解説されました。手技はBEVAの発表とほぼ同様で、PGF2α(クロプロステノール750-1,000µg)投与後は効果(副作用と言われている発汗や不快感)が十分認められるまで15-20分ほど待ってから子馬を母(乳母)の前に連れてきて、子馬の匂いを嗅がせたり舐めさせたりさせた後(5-10分程度)、子馬を乳房に導きます。こちらも子宮頚管刺激は実施していません。強調されたポイントとしては「他の馬がいない静かな馬房で行うこと」、「副作用が強く表れるくらい高濃度のPGF2αを投与すること」、「効果が出るまで最低15分は待つこと」、「鎮静や鼻捻子は使わないこと」、「懲戒しないこと」などです。元来、分娩時には陣痛(子宮収縮)のために内因性のPGF2αが分泌されますので、PGF2α投与も分娩時の模倣と言えますが、投与されたPGF2αがどのような機序で母性を惹起するのかについてはまだ分かっていません。
さいごに
本手法は当場で実践していないので筆者も従来法との比較ができないのですが、Daels教授曰く、従来の方法に比べて驚くほど短い時間で子馬を許容するとのことですので、試してみる価値は大いにあると思われます。ただし、本手法に関する論文はまだありません。これは乳母付けや母性というものの定義が難しく、科学的(客観的)な評価が難しいことが理由だと思われます。「根拠はあるんですか?」とエビデンスが求められる昨今ですが、現場には科学的評価が難しいテーマばかりです。本手法はこのような状況であることをご理解ください。最後に注意点ですが、PGF2α注射薬には何種類かあり、それぞれ成分が異なります。また、本法は動物用医薬品として承認された用法用量から逸脱した使用方法であることをご理解の上実施してください。
図1伝統的な乳母づけの光景
日高育成牧場 生産育成研究室 村瀬晴崇