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2019年6月10日 (月)

イギリス・アイルランドにおける購買前獣医検査について

No.83 (2013年8月1日号)

はじめに
 洋の東西を問わず、馬の売買取引に関するトラブルは数多く存在します。その理由として、馬は「高額」な商品であることに加えて、生体、すなわち「生き物」であるため、自動車や精密機械などと比較して、その品質保証が困難であることなどがあげられます。また、わが国の馬取引の中心である育成期の馬(当歳~2歳馬)は、売買時に「成長期」であることから、取引前には認められなかった疾患が、取引後に発生する可能性もあります。さらに、取引後における放牧や調教などの運動負荷により、外見上認められなかった疾患や欠陥が顕在化することも少なくありません。
 冒頭で「洋の東西を問わず」と述べたように、馬の取引のトラブルで悩んでいるのは、わが国だけではありません。馬取引が盛んに行われている諸外国の例を垣間見ることにより、安心して馬の売買が可能となる方法を構築する手がかりをつかむことができるかもしれません。そこで今回は、イギリスおよびアイルランドの馬取引における「購買前獣医検査」Pre-Purchase Examination(以下PPE)についてご紹介したいと思います。

購買前獣医検査PPE
 イギリスおよびアイルランドにおいては、PPEが一般的に実施されています。これは、購買者が購入を予定している馬に対して、購買目的に適っているかどうか、異常所見や疾患の有無といったリスクに関する部分に関して獣医師に検査を依頼するものです。依頼された獣医師の多くは、PPEガイダンスノート(※)とよばれる「検査手引書」に基付いて実施しています。これには、獣医師が実施するべき検査項目が順序立てて明記されており、イギリス馬獣医師会および英国王立獣医師会といった獣医師の権威団体によって作成および承認されています。このため、これに則ることにより、可能な限り適切な検査が実施できるとともに、取引後のクレームなどのトラブルを最低限に抑制できるシステムが構築されています。さらに、当該馬に関与する検査獣医師、購買者および販売者のすべてが、購買時検査を実施するうえで理解しておく必要がある事項が記載されています。例えば、「PPEには限界がある」「購買者の使用目的およびニーズに基付いて合否判断する必要がある」「検査獣医師は当該馬の診療に携わっていない」ことなどが明記されています。
 実際の検査においては、これに示されたすべての検査ステージに加え、必要に応じてレントゲン検査や上気道の内視鏡検査を実施するため、1頭当たりの検査が1時間を超える場合も少なくありません。また、競走馬や馬術競技馬などの高額馬取引の検査は、臨床経験が豊富かつ公平に判断できる獣医師が担当しています。
※PPEガイダンスノート原文
http://www.beva.org.uk/_uploads/documents/1ppe-guidance-notes.pdf

検査の流れ
 PPEガイダンスノートの記載内容のうち、「基準検査」とよばれるPPEの基本となる検査は以下の5つのステージから成り立っています。

ステージ1 予備検査
駐立時の目視および触診などによる馬体外貌の検査。

ステージ2 引き馬による常歩および速歩の歩様検査
常歩および速歩の直線運動、左右方向の小さい回転、および2~3歩の後退による歩様検査。

ステージ3 運動負荷試験
騎乗による運動負荷時の検査。この項目の目的は「心拍数あるいは呼吸数を増加させた際の状態確認」「常歩、速歩、キャンター、可能であればギャロップ時の状態の確認」であり、騎乗が困難であれば、ランジングへの代替も可能である。

ステージ4 静止および再検査
ステージ3の運動後の安静状態における呼吸循環器系に関する検査。

ステージ5 2回目の速歩検査
運動と安静時検査によって確認された所見の再確認を目的とした速歩検査。

その他の検査
以上の検査以外に、ドーピング検査(血液検査)や必要に応じた屈曲試験、速歩による回転検査、レントゲン、内視鏡もしくは超音波検査などを実施する。

セリにおけるPPE
 競走馬のセリにおいては、PPEガイダンスノートの項目のうち、限定された一部の検査が短時間で実施されます(下表)。「PPEガイダンスノートの基準検査」と「セリにおけるPPE」両者の検査内容を比較すると、後者は明らかに簡略化されていますが、これには理由があります。セリにおいては、時間、場所および年齢に制約があるため、詳細な検査が不可能です。また、この事情を購買者が理解し、あくまで簡易検査であることを認識したうえでの依頼に基づいているためです。さらに、セリにおいては購買者本人が実馬検査している場合が多く、獣医師によるPPEはあくまで補助、セカンドオピニオンと見なされていることも検査を簡略化できる理由のひとつです。
 多くの獣医師は、安静時の外貌検査、心臓の聴診、歩様検査(ほとんど常歩のみだが、場合によっては速歩を実施する)、および内視鏡検査(上気道観察のみ)に限定して検査を実施しています。内視鏡検査は1歳馬であっても馬房内で実施することがほとんどで、セリ会場にはポータブル内視鏡を肩にかけた獣医師の姿を頻繁に見かけることができます。
 X線検査は腫脹が認められる部位、跛行肢など必要な個所のみに限定して実施されます。なお、X線検査が事前に実施されている上場馬はそれほど多くなく、欧州のトップセールであるタタソールズ1歳市場のブック1においても、レポジトリールームへの事前提出率は、上場者の3割程度にとどまっています。

1_3 セリにおける獣医師によるPPE(左)と馬房での内視鏡検査(右)

2_3 タタソールズのレポジトリールーム データ提出率は上場者の3割程度である。

3_3 PPEとセリにおける購買前検査の比較

売却後検査
 英愛の競走馬市場においては、売却後検査も頻繁に実施されています。主な検査項目は、異常呼吸音を確認するウィンドテスト、およびドーピング検査(血液検査)です。1歳および2歳市場においては、いずれの検査もほとんどの売却馬に対して実施されています。
 ウィンドテストは、会場内に設置されているラウンドペン(丸馬場)でのランジングにおいて、呼吸音が明瞭に聴取可能となるまで、左右それぞれ10周程度のギャロップを実施することにより異常呼吸音の有無を確認する検査です。なお、1歳市場の上場馬は、このテストのため、セリ馴致の一つとしてランジング調教が実施されています。

4_2 売却後のウィンドテスト。右側が呼吸音を確認している獣医師

PPE講習会
 PPEガイダンスノートに基づいた検査の周知徹底を図ることを目的とした講習会が、英国馬獣医師会の主催により、英愛国の各地で年間を通して開催されています。内容は「PPEの概要」や「クレームを防止するための購買前検査の実施方法」などの講義、実馬を用いた「コンフォメーション、歩様検査、心臓および眼検査方法」などであり、適切な購買前検査の実施および売買トラブルの防止を目的としています。
 講義のなかで、講師からは「購買前検査におけるクレームを予防するためには、購買者とのコミュニケーションが極めて重要であり、どれほど精度の高いプロトコールが体系化されていても、最終的には人間同士のコミュニケーション(言い回し、正直な発言など)が、トラブルを防止できる最も重要なポイントである」とアドバイスがありました。
 このような獣医師会をあげての取り組みは、獣医師の検査技術向上、ひいては適切な馬取引を実施することによる馬産業の発展を目的としています。

まとめ
 PPEガイダンスノートは馬取引を円滑に実施するための優れたプロトコールであるといえます、しかし、これを用いた検査システムの有効性を左右するのは、検査獣医師の臨床経験、観察力および依頼主に対するリスク説明などのコミュニケーション能力と言えるのかもしれません。
 わが国においては、PPEは一般的ではありませんが、馬取引に関わる獣医師の責任の重さは小さくありません。市場の透明性を向上させ、売り手、買い手ともに安心した取引を行うためには、現状において「パーフェクト」な診断および予後判定は不可能であっても、常に「ベター」な方法を模索していく必要がありそうです。

(日高育成牧場 専門役 冨成 雅尚)

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