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2019年9月18日 (水)

日高と馬の関わり:サラブレッド生産に至るまで

No.105(2014年7月15日号)

 今回は、科学に関する話題から離れて日高のサラブレッド生産の歴史について紹介したいと思います。「箸休め」としてお読みいただければ幸いです。

 明治以前の「日高と馬」

 日高地方に住んでいる方にとって「日高と馬の関わり」ということであるならば、多くの方は様似等澍院(写真1)の住職「馬追い上人」を思い浮かべられるのではないでしょうか。この住職、滋真が牧場創始の建白をしたのは安政4年(1857年)であり、翌年の幕府による調査の結果、「浦川牧」(元浦河地区、即ち現在の荻伏に存在:当時は浦川牧と称した)が開設されました。これ以前にも、有珠・虻田などの地区にも1800年代初頭から牧場があり、馬市も開かれていたようです。浦河に縁の深い「赤心社」の報告(明治16年)には「古来日高は名馬の産地で馬持ちが多い」と記されています。「浦川牧」には一時500頭あまりの馬が飼養されていたようですが、明治元年に廃止され一部の馬は近隣に払い下げられたとのことです。これらの馬が日高地区での馬産の基礎になったと考えられます。

 1_4 写真1 現在の様似等澍院

明治前期の「馬匹改良」

 明治政府は、農業近代化政策のひとつとして北海道に開拓使を置くとともに、明治5年には道産馬改良のために新冠御料牧場の前身である「新冠牧馬場」を開設します。さらに、農畜産技術指導者であり獣医師でもあったエドウィン・ダンの提案を受け入れ、明治10年、北海道の馬産の拠点を新冠に集約し、西洋式牧場として整備しました。これにより優秀な種牡馬と進んだ管理技術が日高に導入され、北海道の馬産の基礎が築かれたといえます。最盛期には千数百頭もの馬が飼育され、すでに始まっていた横浜根岸での洋式競馬にも勝ち馬を送っていたとのことです。日高管内各町村史によれば、明治20年前後からは経営規模の大きな牧場が管内に現れてきたと記載されています。また、明治40年には日高種馬牧場(旧日高種畜牧場)が設立されました。両牧場ともサラブレッド種牡馬を繋養し、北海道における本格的なサラ系馬の生産が始まりました。

 サラブレッド牝馬のまとまった数の輸入は、まず日本レース・クラブが明治30年代に豪州産馬を輸入しています。これらの多くは競走後に繁殖に供されました。例えば有名なミラは新冠御料牧場に繋養され、その血はワカタカ、ヒカルイマイ、ランドプリンス等々に引き継がれていきました。これに続く動きとしては、日露戦争のため豪州から多頭数(一万頭など諸説あり)の馬が輸入されました。日清戦争あるいは北清事変においては、日本産馬の軍馬としての資質の低さが問題でしたが、日露戦争では長期化に伴う資源不足が憂慮され、当時同盟国であった英国の仲介により輸入されたとのことです。この血統的内訳は不明ですがサラブレッドも多く含まれていたことが想像できます。この中の牝馬約3,500頭を民間に貸し付け、このうち397頭が北海道に分配されました。この豪州牝馬を基礎とする馬種の改良は大きな成果があったと「日本馬政史」に記されています。軍馬補充目的で輸入されたのですが、その後のサラブレッド生産にも大きな影響を及ぼしたと考えられます。

 明治後期の「サラブレッド生産」

「日高種畜牧場50年の歩み」には、明治41年にサラブレッド種牡馬ブレイアモーア(写真2)を含む種牡馬7頭を民間馬114頭に交配したとあります。これに呼応する記述として、浦河の「鎌田家」の歴史を記した「大地とともに」では明治40年、鎌田九平氏がサラブレッド繁殖牝馬数頭を持って牧場を始めたとされており、「西舎開村記念誌:拓地百年」には、この牝馬に国有種馬牧場の同種の馬を配したと記されています(写真3)。そして購買者には、競馬関係書によく名前の出てくるアイザックス氏も出ています。この時期から日高地区の民間におけるサラブレッド生産が加速されたと考えられます。以降、馬券禁止後一時下火になったものの、大正12年に馬券が復活するとサラブレッド生産が著しく高まったと「日高支庁100年記念誌」に記載されています。このころに活躍した日高種馬牧場のサラブレッド種牡馬には、帝室御賞典競走勝馬を始め優秀な産駒を多数輩出し1924(大正13年)~1929年(昭和4年)のリーディングサイアーとなったイボア(写真4)が有名です。

2_3 写真2 日高種馬牧場開設当初にイギリスから導入されたブレイアモーア(写真には、ブレアーモアーと表記されている 浦河町立郷土博物館所蔵)

3_3写真3 「大地とともに」(右:日東牧場(浦河町)所蔵)と「西舎開村記念誌:拓地百年」(左:日高育成牧場所蔵)

4_2 写真4 イギリスから導入されたイボア(1905年生まれ)
イボアは1910年(明治43年)十勝に導入され、産駒成績が優秀であったためその後1917年(大正6年)に日高種馬牧場に移管された。写真は、旧日高種畜牧場メモリアルホール(日高育成牧場内)に展示されている。

 本来洋種馬の輸入目的は、畜耕および輸送手段である在来馬の大型化であったので、国費によるサラブレッド種牡馬の購入もそのためでなければ名分が立たなかったと思われます。「日本馬政史」にも「民間にサラブレッド純粋種を繁殖させる主旨ではない」と言い訳がましく書かれています。一方、後段では明治40年頃の競馬興隆時には、時代の要求によりその供用が急伸したとも書かれています。昭和12年に発行された「日高種馬牧場要覧」にも競馬隆昌時に日高地方は有力なサラブレッド生産地であったことが示唆されています。

 (軽種馬育成調教センター 日高事業所長 高松勝憲)

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