« 輸送と抗菌薬が腸内フローラに及ぼす影響 | メイン | 育成後期のV200と競走成績との関連性について »

2020年5月28日 (木)

根室・釧路・十勝地区での馬産の発展

No.161(2016年12月15日号)

  

 以前に本欄で日高、胆振各地区の馬産の発展について紹介させていただきました。今回は標記地区について触れてみたいと思います。

  

この地区への馬の移入

 資料によりますと、様似以東は峻険な日高山脈があり寛政10年(1798年)までは馬が通れず、馬の飼養が無かったとされています。幕府によるルベシベツ・ビタタヌンケ(現在の広尾町内にある地名)間の山道や様似山道、猿留山道などの開削により様似から釧路まで馬を通すことができるようになりました。釧路市史では釧路に馬が入ったのは寛政11年としています。根室市史によると根室地方に馬が入ったのは文化6年頃(1809年頃)とされています。十勝地区に馬が組織的に導入されたのは比較的新しいもので、帯広市史によると文化年間に襟裳経由で道東地区に馬が入った後、各場所に備馬を配布していますが、「この備馬は海岸線を往来したにとどまった。それ以外に道路がなかったばかりでなく、国防上その必要がなかったのであろう。」と記述された状況でした。その後、明治16年に下帯広村(現帯広市)に入植した衣田勉三率いる晩成社が明治19年当縁郡当縁村生花苗(現大樹町)に牧場を開設したのが十勝における民間牧場の創始と市史に記載されています。十勝の開拓が進むにつれ十勝川を利用した船運が進み、十勝川上流とさらに内陸部(足寄、本別など)の物資の駄送のため多くの駄馬を必要としました。 

  

明治維新後の馬匹改良

 明治維新前の北海道各地区の経営はいわゆる「場所」を拠点として行われていました。「場所」は主として海岸線に点在し、主な輸送手段は海運でした。馬はこれらの場所間の輸送連絡用に使用されました。当時の北海道の馬は以前に導入された東北産の馬が劣悪な飼養環境のため矮小化したものと考えられます。一方、当時の北海道の道路事情はとても厳しいものがあったのですが、小挌だが粗食に耐える土産馬は厳しい峠越えや深い林の間などではとても有用であったと思われます。しかし、開拓時代にはプラウによる畜耕や切り出した木材の輸送には非力であり、その改良が急務となります。明治維新後、開拓使は明治2年(1869年)、根室開拓使出張所を設け東北海道経営の策源地とし、道東地区での発展は根室が一番でした(新北海道史より)。しかし、その経済は漁業を主体としたものでした。そこで開拓使はこの地で農・牧・養蚕などの試験を行ってその進展を図っています。

 家畜の改良のためには国内外から種畜の輸入・移入を行う必要があります。そのため開拓使は明治5年新冠牧馬場、翌年の登別牧馬場、そして明治8年には根室牧畜場を開設します。根室牧畜場は前年に萌様(根室市立花咲小学校付近)および穂香の根室官園を改変したもので、釧路町史によると米国から輸入した種馬や南部種馬により積極的に馬匹改良を行いました(写真1)。1_8写真1

 その後、根室牧畜場は一旦民間に売却、その後当時和田村にあった屯田兵村の共同管理となります。再び民間に売却後所有が移り、渋沢栄一が興した合資会社有終会に移管されます。同牧場の馬部門はその後昭和13年(1938年)に鐘ヶ淵紡績に売却され戦後まで馬産に貢献しました(渋沢社史データベースおよび「根室の馬産)より)。昭和初期、生産馬が新冠御料牧場にアングロノルマン種の種馬として購買された記録も残っています。

 この地区での馬産の発展を促したのは他の地区と同様に、そもそも馬の需要そのものが増加したこと、さらにそれに対応できる大規模な土地の開拓が可能となったことです。明治30年、北海道国有未開地処分法(明治41年改正)により多くの牧場が出現しました。池田農場(農場主は旧鳥取藩の池田仲博侯爵と池田源子爵)は明治32年北海道庁に出願し種牡馬の貸し付けを受け自己有馬だけでなく、地域の馬匹改良にも着手しています(池田町史より)。

  

この地区の馬産の特徴

 明治維新後、北海道における馬匹改良は積極的に進められました。北海道農業発達史では日露戦争に徴発(ヒトでいう召集)された日本馬について「北海道産馬第一位にして奥州産馬之に次ぎ」とする資料を提示してあります。こうなった原因として同書は「まず馬匹の最大の需要者である農家の欲する馬は重種系であり、したがって、生産者が競って重種系を生産した。」としています。農地の開拓を進めたことで北海道の農家の経営規模は他府県に比べ大きくなり、要求される輓曵力も大きくなりました。また材木・石炭の輸送などにも大型馬が必要とされていました。

 これを助長する動きとしては軍馬補充部の設置があります。まず、明治33年白糠に釧路支部が、明治41年標茶に川上支部、明治42年本別に十勝支部と矢継ぎ早に設立され、軍馬購買が盛んとなっていきます(写真2)。

 また明治38年に馬匹改良30年計画(いわゆる馬政第一次計画)が立案され、これにより日高(明治40年)と十勝(明治43年)の種馬牧場が設立されました。この計画では「適地に適種を繁殖」させるため種牡馬配置に考慮がなされました。「四囲の関係と既往の実績を考査し」日高地区は乗馬・軽輓馬、十勝・釧路・根室・北見では軽・重の両輓馬を暫定的な種牡馬配置としています。2_6写真2

「この地域の血統を受け継いだサラブレッド」

 明治9年に事業を開始した「真駒内放牛場」は明治19年に北海道庁種畜場となり、馬匹の改良も奨励しました。この牧場が明治36年に米国より輸入した馬の中に牡馬ラピアス、牝馬チップトップ(いずれもサラブレッド種)がいます。この交配により明治41年に牝馬竹園が種畜場で生産され、この竹園と十勝種馬牧場に創立当時からいる種牡馬イボア(サラブレッド種)との交配により大正5年(1916年)に牝馬玉姫が生まれます。幕別町にある「新田の森記念館」の資料によると、この玉姫を購買したのは秋山好古で、秋山同様伊予松山出身で親交があり池田町で牧場を開いていた新田長次郎氏に預けたとされています。秋山好古大将伝記刊行会が発行した本によると退役後、故郷の北豫中学の校長であった秋山好古は毎年夏になると新田牧場を訪れていますので、その都度玉姫に会うことができたでしょう。この玉姫の孫ホシホマレは新田牧場産で昭和14年第2回オークスを勝っています。馬主は長次郎氏の子息愛祐氏。そして玉姫の5代後に第34回日本ダービー優勝馬のアサデンコウが出ます(写真3)。3_5写真3

 
  

((公財)BTC軽種馬育成調教センター 場長 髙松勝憲)

コメント

この記事へのコメントは終了しました。