妊娠のメカニズム(後半)
前稿では、交配から受精、卵割、妊娠鑑定、妊娠認識といったイベントを解説しました。本稿ではその後のイベントを順に解説していきます。
固着と着床、胚と胎子
「固着fixation」は排卵16日目頃に起こるウマ特有現象で、胚胞が子宮と接着することを指します。双子が隣接して固着した場合には一方のみを処置することが難しいため、固着する前に双胎の確認をしなくてはなりません。一般の哺乳類では、胚胞と子宮が接着するとすぐに着床implantationが起こります。着床とは胎子側の組織と母体側の組織(子宮)が互いに反応して胎盤形成を開始することを意味しますが、ウマでは着床に先駆けて固着が起こるため、着床は排卵後40日頃と遅いのが特徴です。この母子の組織的な交わりを境に、胚embryoは胎子fetusと呼ばれるようになります。つまり、40日齢までが胚であり、それまでに消失するものが胚死滅と言われます。
子宮内膜杯・二次黄体
着床が起こると、胎子組織の一部が子宮組織に入り込み子宮内膜杯endometrium cupを形成します。この子宮内膜杯がeCGというホルモンを分泌し、卵巣に二次黄体の形成を促します。この頃には一次黄体が退行しかかっていますので、二次黄体の形成は黄体ホルモンのブースト作用として妊娠に必須な現象です。胚死滅予防のため黄体ホルモン剤を投与する場合には、この二次黄体が形成されるタイミング(6-7週目)が投与終了の一つの目安となります(図1)。子宮内膜杯はもう一つ臨床上重要な意味があります。一旦子宮内膜杯が形成されると、仮に胎子が死亡してしまった場合にも子宮内膜杯が遺残し、eCGを分泌し続けるため発情が回帰しません。同シーズン中に再交配できないことから、通常の妊娠確認は6週目の胚死滅が起こらなかったことをもって検査終了されます。7週目移行は安定期だから検査しないわけではないことにご留意下さい。
図1 妊娠馬の血中プロゲステロン濃度の推移
胎盤形成
胎盤placentaはあらゆる胎生哺乳類において形成され、基本的な機能は共通するものの、その形態は動物種によってかなり異なります。例えば、ヒトの胎盤は文字通り盤状をしていますが、イヌ・ネコでは帯状、ウシでは丘阜状、そしてウマは散在性と言われています(図2)。散在性胎盤の組織構造は母子血管の距離が離れているためガス・栄養交換の効率が悪いのですが、子宮全体に広く広がることで効率の悪さを補っています。また、子宮上皮細胞層が残っていることは分娩時子宮の損傷が小さいことを意味し、分娩後わずか10日で迎える初回発情での受胎性に貢献しています。
ウマの胎盤は妊娠維持自体にも大きく寄与しています。前述の通り、黄体ホルモンは一次黄体から二次黄体に引き継がれますが、その後分泌源はさらに胎盤に移行します(図1)。胎盤由来の黄体ホルモン類(厳密には黄体ホルモンそのものではない)が子宮平滑筋を弛緩させる一方頸管をギュッと閉じ、妊娠維持に寄与します。
図2 動物種による胎盤の違い
前置胎盤?早期胎盤剥離?
これまで述べてきたように、ウマとヒトでは妊娠メカニズムが異なります。これを踏まえない誤解の例を一つお示しします。分娩時のレッドバックは前置胎盤や早期胎盤剥離と呼ばれてきました。しかし、これらはいずれもヒト産科で用いられている用語であり、必ずしも適当な訳語ではありません。前置胎盤とは厚い盤状胎盤が子宮口に形成されたため、正常な破水・娩出が起こらず問題となります。しかし、そもそもウマ胎盤は子宮口を含む子宮全体に裏打ちされていますので、同一の病態でないことは明らかです(図3)。ヒトの胎盤早期剥離は分娩予定日よりも早期に胎盤が剥がれることを指しますが、レッドバックの起こる時期は基本的に予定日前後です。英語でpremature placental separationと言うこともあるため必ずしも誤訳とは言えませんが、ヒト医療で言われているソウハクとは明らかに異なる病態です。レッドバックの実態は、胎盤炎によって肥厚した胎盤が破れずに娩出されることと言われており、残念ながらこれに合致するヒト医療用語はありません。筆者個人の考えですが、無理にヒト用語を当てはめるとかえって混乱を招きかねませんので、この例では「レッドバック」と言うのが適当ではないでしょうか。
図3 ヒトとウマの胎盤の違い
日高育成牧場生産育成研究室 村瀬晴崇