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2021年1月22日 (金)

【海外学術情報】 第62回アメリカ馬臨床獣医師学会(AAEP)

はじめに

AAEPは、馬に関する調査研究や臨床教育、最新の医療機器や飼料などの展示も行われる学会です。2016年はフロリダのオーランドで12月3~7日に開催され、世界各国から約2,300人の馬臨床獣医師が参加しました(図1)。日本からは、私の他にも数名の日高で顔なじみの臨床獣医師さん達が参加しました。今回はこの学会の中から興味を持った演題について3つ紹介したいと思います。

 

  • 大腿骨内側顆のX線異常所見の発生とその変化について

北米では11月の当歳セリに向けて、離乳直後の時期にX線スクリーニング検査が行われるのが一般的で、その結果をもって売却方針や治療方針が決められています。その後も、当歳・1歳・2歳とセリに出る度にレポジトリー資料用のX線検査が何度か行われます。Dr. Spike-Pierce(Rood and Riddle Equine Hospital)は、そのX線資料を解析し、離乳後の当歳馬の約5.3%(76/1,444頭)の大腿骨内側顆にすでにX線異常所見が認められることを報告しました。このことから本疾病の発生時期も他の部位に発生する骨嚢胞や離断性骨軟骨症と同様に、成長盛んな離乳前後であることが分かります。さらに、異常所見の経過を解析したところ、その約6割は1歳セリまでに良化していました。一方で、関節面に1.5㎝以上のX線透過像を有する場合やシスト像の所見を有する場合は、改善しない割合が高くなりました。骨嚢胞を有する場合、運動制限は有効な対処法の1つであり、当歳馬のX線スクリーニング検査は、所見の早期発見・早期治療に有用であると考えられます。また、大腿骨内側顆の軟骨下骨嚢胞はセリでの馬の価格を下げる要因となってしまいますが、僅かなX線所見(図2)の場合は良化することも多く、競走パフォーマンス下げる要因では無いことも強調していました。

 

  • ヘパリン投与による馬ヘルペス脊髄脳症(EHM)の発症防御

EHMは、馬ヘルペスウィルス1型(EHV-1)感染による重篤な症状の1つです。EHV-1感染症は馬鼻肺炎とも呼ばれ、生産地では若馬の呼吸器病や妊娠馬の流産・死産を引き起こすことから、気を付けなくてはならない病気です。講演では最近発表されたトピック論文としてDr. Walter J.(Zurich大学)の研究が紹介されました。EHV-1感染では2峰性の発熱が起こることが知られていますが、最初の発熱(38℃以上)が認められた時点で抗凝血薬であるヘパリン製剤(25,000単位・1日2回)を3日間投与することで、非投与群に比べて発熱期間およびEHMの発症が有意に抑えられたというものです。また、非投与群の発症馬の中には流産の発生が6頭含まれていましたが、投与群の中に流産の発生馬はいませんでした。EHMの発症は、ウイルスが感染する際に脳や脊髄の血管に血栓による障害が起こることで発症することが知られています。ヘパリンは血栓の発生を抑えるとともにウイルスの細胞への侵入を抑制する作用も考えられていますが、まだ発症防御メカニズムの詳細に関しては解明されていません。現在、EHV-1による妊娠後期の流産予防にはワクチン接種や消毒の徹底が有効とされていますが、発症の拡散防止にヘパリンによる治療も有効となれば素晴らしい発見です。今後の更なる研究が期待されます。

 

  • リハビリテーション管理における関節可動領域の改善処置

リハビリテーションの目標は、健全な機能をなるべく短期間の内に元の状態に戻すことです。馬でも腱靭帯炎や骨折や関節疾患により長期間運動を制限されることで関節可動域が減少してしまう場合があります。Dr. Adair S.(Tennessee大学)は、超音波やレーザー治療、加温や冷却療法、スイミングプールやウォータートレッドミルなどを使用したリハビリテーション管理を紹介する中で、慢性期におけるプログラムとして横木(おうぼく)障害の利用について紹介していました。横木を馬が跨ぐことにより、関節の可動域を広げることが可能になるだけでなく、末梢神経を介した運動感覚機能も改善されるというものです。横木の高さや配置を変えることで関節の可動域を調節することも可能になります。この横木を利用した運動は、健常な中期・後期の育成馬にも応用可能であると思われます。普段の飼養管理や調教の一部にアレンジして取り入れてみるのも良いと思いました。

 

最後に

海外の学会に参加することで、最新の様々な情報を得ることができます。一方で、近年は日高発の調査研究や獣医診療技術が紹介される機会も増えてきていると実感します。海外の研究成果や飼養管理技術を学び、応用可能なものを導入していくことはもちろん有用ですが、今後は日高発の研究成果を海外の国際学会の場で積極的に発信していくことが日本の馬産業が世界で同等に関わり続けていく上でとても大切なことと思われます。今後も日高育成牧場で行う調査研究へのご理解とご協力を宜しくお願い申し上げます。

 

1_4 (図1)AAEPメイン会場での講演の様子

 

2_4 (図2)大腿骨内側顆の関節面に認められる僅かなX線透過像

当歳の離乳時期に発生することが多いが、1歳時までに良化するものが多い。

 

3_3 (図3)横木を跨ぐ様子

横木などの障害を利用することで関節の可動範囲を広げることができる。

生産育成研究室

研究役 佐藤文夫

2020年5月28日 (木)

根室・釧路・十勝地区での馬産の発展

No.161(2016年12月15日号)

  

 以前に本欄で日高、胆振各地区の馬産の発展について紹介させていただきました。今回は標記地区について触れてみたいと思います。

  

この地区への馬の移入

 資料によりますと、様似以東は峻険な日高山脈があり寛政10年(1798年)までは馬が通れず、馬の飼養が無かったとされています。幕府によるルベシベツ・ビタタヌンケ(現在の広尾町内にある地名)間の山道や様似山道、猿留山道などの開削により様似から釧路まで馬を通すことができるようになりました。釧路市史では釧路に馬が入ったのは寛政11年としています。根室市史によると根室地方に馬が入ったのは文化6年頃(1809年頃)とされています。十勝地区に馬が組織的に導入されたのは比較的新しいもので、帯広市史によると文化年間に襟裳経由で道東地区に馬が入った後、各場所に備馬を配布していますが、「この備馬は海岸線を往来したにとどまった。それ以外に道路がなかったばかりでなく、国防上その必要がなかったのであろう。」と記述された状況でした。その後、明治16年に下帯広村(現帯広市)に入植した衣田勉三率いる晩成社が明治19年当縁郡当縁村生花苗(現大樹町)に牧場を開設したのが十勝における民間牧場の創始と市史に記載されています。十勝の開拓が進むにつれ十勝川を利用した船運が進み、十勝川上流とさらに内陸部(足寄、本別など)の物資の駄送のため多くの駄馬を必要としました。 

  

明治維新後の馬匹改良

 明治維新前の北海道各地区の経営はいわゆる「場所」を拠点として行われていました。「場所」は主として海岸線に点在し、主な輸送手段は海運でした。馬はこれらの場所間の輸送連絡用に使用されました。当時の北海道の馬は以前に導入された東北産の馬が劣悪な飼養環境のため矮小化したものと考えられます。一方、当時の北海道の道路事情はとても厳しいものがあったのですが、小挌だが粗食に耐える土産馬は厳しい峠越えや深い林の間などではとても有用であったと思われます。しかし、開拓時代にはプラウによる畜耕や切り出した木材の輸送には非力であり、その改良が急務となります。明治維新後、開拓使は明治2年(1869年)、根室開拓使出張所を設け東北海道経営の策源地とし、道東地区での発展は根室が一番でした(新北海道史より)。しかし、その経済は漁業を主体としたものでした。そこで開拓使はこの地で農・牧・養蚕などの試験を行ってその進展を図っています。

 家畜の改良のためには国内外から種畜の輸入・移入を行う必要があります。そのため開拓使は明治5年新冠牧馬場、翌年の登別牧馬場、そして明治8年には根室牧畜場を開設します。根室牧畜場は前年に萌様(根室市立花咲小学校付近)および穂香の根室官園を改変したもので、釧路町史によると米国から輸入した種馬や南部種馬により積極的に馬匹改良を行いました(写真1)。1_8写真1

 その後、根室牧畜場は一旦民間に売却、その後当時和田村にあった屯田兵村の共同管理となります。再び民間に売却後所有が移り、渋沢栄一が興した合資会社有終会に移管されます。同牧場の馬部門はその後昭和13年(1938年)に鐘ヶ淵紡績に売却され戦後まで馬産に貢献しました(渋沢社史データベースおよび「根室の馬産)より)。昭和初期、生産馬が新冠御料牧場にアングロノルマン種の種馬として購買された記録も残っています。

 この地区での馬産の発展を促したのは他の地区と同様に、そもそも馬の需要そのものが増加したこと、さらにそれに対応できる大規模な土地の開拓が可能となったことです。明治30年、北海道国有未開地処分法(明治41年改正)により多くの牧場が出現しました。池田農場(農場主は旧鳥取藩の池田仲博侯爵と池田源子爵)は明治32年北海道庁に出願し種牡馬の貸し付けを受け自己有馬だけでなく、地域の馬匹改良にも着手しています(池田町史より)。

  

この地区の馬産の特徴

 明治維新後、北海道における馬匹改良は積極的に進められました。北海道農業発達史では日露戦争に徴発(ヒトでいう召集)された日本馬について「北海道産馬第一位にして奥州産馬之に次ぎ」とする資料を提示してあります。こうなった原因として同書は「まず馬匹の最大の需要者である農家の欲する馬は重種系であり、したがって、生産者が競って重種系を生産した。」としています。農地の開拓を進めたことで北海道の農家の経営規模は他府県に比べ大きくなり、要求される輓曵力も大きくなりました。また材木・石炭の輸送などにも大型馬が必要とされていました。

 これを助長する動きとしては軍馬補充部の設置があります。まず、明治33年白糠に釧路支部が、明治41年標茶に川上支部、明治42年本別に十勝支部と矢継ぎ早に設立され、軍馬購買が盛んとなっていきます(写真2)。

 また明治38年に馬匹改良30年計画(いわゆる馬政第一次計画)が立案され、これにより日高(明治40年)と十勝(明治43年)の種馬牧場が設立されました。この計画では「適地に適種を繁殖」させるため種牡馬配置に考慮がなされました。「四囲の関係と既往の実績を考査し」日高地区は乗馬・軽輓馬、十勝・釧路・根室・北見では軽・重の両輓馬を暫定的な種牡馬配置としています。2_6写真2

「この地域の血統を受け継いだサラブレッド」

 明治9年に事業を開始した「真駒内放牛場」は明治19年に北海道庁種畜場となり、馬匹の改良も奨励しました。この牧場が明治36年に米国より輸入した馬の中に牡馬ラピアス、牝馬チップトップ(いずれもサラブレッド種)がいます。この交配により明治41年に牝馬竹園が種畜場で生産され、この竹園と十勝種馬牧場に創立当時からいる種牡馬イボア(サラブレッド種)との交配により大正5年(1916年)に牝馬玉姫が生まれます。幕別町にある「新田の森記念館」の資料によると、この玉姫を購買したのは秋山好古で、秋山同様伊予松山出身で親交があり池田町で牧場を開いていた新田長次郎氏に預けたとされています。秋山好古大将伝記刊行会が発行した本によると退役後、故郷の北豫中学の校長であった秋山好古は毎年夏になると新田牧場を訪れていますので、その都度玉姫に会うことができたでしょう。この玉姫の孫ホシホマレは新田牧場産で昭和14年第2回オークスを勝っています。馬主は長次郎氏の子息愛祐氏。そして玉姫の5代後に第34回日本ダービー優勝馬のアサデンコウが出ます(写真3)。3_5写真3

 
  

((公財)BTC軽種馬育成調教センター 場長 髙松勝憲)

輸送と抗菌薬が腸内フローラに及ぼす影響

No.160(2016年12月1日号)

 

はじめに

 草食動物であるウマは、炭水化物やタンパク質を小腸で吸収し、繊維質の分解によって産生された揮発性脂肪酸やビタミンなどを盲腸・大結腸で吸収します。その際、繊維質の分解やビタミン産生などには、腸内に存在する細菌(腸内細菌叢=腸内フローラ)が深く関わっています。その他にも腸内フローラには病原性のある細菌の競合的排除など重要な役割があり、そのバランスが崩れると下痢症や腸炎の発症につながる可能性があります。そのため、正常な腸内フローラを保つことは馬にとっては非常に重要です。腸内フローラへ影響を与える要因としては、調教やレース、輸送などのストレス、抗生剤の投与や手術などさまざまありますが、今回は輸送と抗生剤の関連性について、JRAが行っている研究をご紹介したいと思います。

  

腸内フローラ解析方法

・細菌培養による解析

 様々な培地や発育条件で糞便を培養し、それらの培地で発育した細菌の種類や菌数を測定して腸内フローラを明らかにする以前から用いられている方法です(図1)。腸内で生きている菌のみを検出し、各菌数をそれぞれ測定することができます。しかし、腸内フローラを構成する細菌は多様なため、中には培養できない菌が存在する場合や細菌の同定が困難な場合も多く、正確に腸内フローラを把握できないことがあります。1_7図1 様々な培地を用いた細菌培養法(出典:腸内菌の世界, 叢文社, 1980)

 

・次世代シークエンサーによる解析

 新しく用いられるようになった方法です(図2)。すべての細菌が持つ特定の遺伝子を標的とすることで、培養できない菌も検出し、腸内フローラ内の細菌を比率として見ることができます。しかし、細菌の遺伝子があれば検出されてしまうため、死んでしまった菌も反映されてしまう可能性や、実際の菌数を測定できないこと、解析には高額な機器が必要なことというデメリットもあります。2_5図2 次世代シークエンサー Ion PGM (Life Technology社)

 

JRAが行っている研究について

 近年、JRAでは所属競走馬において輸送後の腸炎発症頭数が増加傾向にあります。その背景としては、輸送頻度の増加や輸送前後で発症した疾患、輸送熱予防のための抗生物質など抗菌薬の予防的投与などの影響が考えられます。その抗菌薬の予防的投与が輸送前後において腸内フローラへ与える影響について上述の2つの解析法を用いて研究を行っています。

 毎年4月下旬に千葉県船橋市にある中山競馬場でブリーズアップセールが行われています。そのセールへ上場する育成馬は、北海道浦河郡浦河町にある日高育成牧場から中山競馬場へ、陸路とフェリーを使い約25時間かけて輸送されます。その輸送直前に輸送熱予防に使われる抗生剤(マルボフロキサシン)の投与群(3頭)と非投与群(5頭)を作り、腸内フローラの変化を調査しました。輸送前後の糞便の状態を確認するために、輸送7日前、4日前、1日前、到着翌日、到着3日後の計5回、直腸内の糞便を採取して上記の解析を行いました。結果として、細菌培養による解析では、大腸菌などの腸内細菌科細菌やブドウ球菌などの菌数が増加する傾向が認められました。次世代シークエンサーによる解析では、8頭中6頭において輸送後に何らかの腸内フローラの変化が認められました(図3)。しかし、これらの変化には、抗生剤の投与の有無との関連は認められませんでした。3_4図3 次世代シークエンサーによる解析結果の一例

 

最後に

 今回の調査によって、長距離輸送は腸内フローラへ何らかの影響を与えることが明らかとなりました。しかし、輸送後に発熱した馬は1頭いたものの下痢症状を示した馬は認められなかったことから、今回検出された腸内フローラの変化は、直ちに下痢症や腸炎の発症につながるわけではないことが確認できました。また、抗生剤の投与の有無との関連が認められなかった理由としては、輸送による変化が大きすぎるため、輸送直前の抗生剤投与の影響が隠されてしまった可能性なども考えられます。

 今後は、どのような腸内フローラの変化が下痢症や腸炎の発症リスクとなるのかなどの疑問に答えていくために、さらなる研究を進めていく必要があると考えられます。

  

(日高育成牧場 業務課 水上寛健)

2020年5月14日 (木)

胆振での馬産の始まり

No.152 (2016年8月1日号)

 

 

 

  

 

 以前に本欄で日高における馬産の始まりについて紹介させていただきました。今回は胆振地区について触れてみたいと思います。

 

明治維新以前

 12世紀以前には東北地方との交流により、北海道に馬が渡ってきたと考えられています。15世紀後半から始まる松前氏(改姓前は蠣崎氏)の統治において、北海道農業発達史1巻にある松前藩の調査報告書「蝦夷地巡覧記」では、寛政9年(1797年)に和人地全73村のうち46村で馬を所有していると記載されていますので、かなり広範囲に馬が飼養されていたようです。この馬たちは松前藩が行っていた商場知行制(家臣への交易権の付与)での各場所間通行駄送用であり農耕用ではなかったとされています。

 一方、1700年代後半以降、ロシア船の度重なる来航に危機感を抱いた幕府は北辺防備のため蝦夷地の整備を急ぐ必要がありました。しかし松前藩にはその統治能力の低さもあり荷の重すぎる事業のためほとんど進んでいませんでした。寛政11年1月、幕府は松前領であった東蝦夷地(太平洋沿岸および千島列島)の内、浦河以北を上地(直轄地)とし、次いで文化4年(1807年)西蝦夷地も上地し、直接統治することとしました。

 享和2年(1802年)、幕府は直轄領の政務をつかさどる遠国奉行の一つとして蝦夷地奉行(後に函館奉行、松前奉行、その後再度函館奉行と改名)を設置しました。虻田町史には羽太正養と共に初代奉行となった戸川安論が文化元年(1804年)に幕府に牧場開設を建議し、それが入れられて有珠地区のオサルベツ(長流別)の原野に馬牧建設を着手しました(写真1)。いわゆる有珠・虻田牧といわれる幕府の牧場は現在の豊浦町から伊達市黄金にいたる富川牧(虻田)、岡山牧(有珠)、平野牧(伊達紋別)、豊沢牧(黄金)の四牧の総称であり、すべてが開場したのは文化3年です。開始時は幕府から拝領した3頭の種牡馬と南部藩から拝領した4頭と買い入れた5頭の牝馬でしたが、文化6年には四牧合計で147頭との記載も見られます。生産された馬は官用の外は民間にも払い下げられました。文化10年には博打石(現松前町)で馬市が開催され、3歳牡馬(年齢は当時のもの)が60頭払い下げられました。購買者には南部、津軽の馬喰(家畜商)も参加して取引していると報告されています。相応の需要があったのでしょう。安政4年(1857年)からは亀田(現函館市北西部)で奉行所により毎年1回の馬市が開かれました。北海道農業発達史によると安政年間(1854~59年)には、馬は全道に分布し、その数は1万頭に達していたと記載されています。しかし馬格は矮小で弱体化しておりました。しかし蝦夷地経営の進展に連れて馬に対する需要は増大したことから幕府は種々の改良増殖策を講じ、これらは明治になっても引き継がれました。

 有珠・虻田地区の馬は文政5年(1822年)有珠山の噴火時の災害記録によると牧馬数は2500頭程度と記載されています。多分この数字が文書的には最も大きな数字でしょう。有珠・虻田牧は明治2年(1869年)10月に65年の歴史を閉じることになりますが、この時の牧馬数は600頭であり、廃止時には各地の希望者へ売り渡し、駅逓の備馬、あるいは開墾の特志者に下げ渡しされるなどされています。

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(写真1:洞爺湖町入江にある蝦夷牧跡)


 

明治維新以後

 幕府が大政奉還を願い出た慶応3年(1867年)10月以後も、北海道開拓は殖産興業だけでなく北辺防備を固める上でも新政府にとって重要な政策でした。そのため翌4年4月(まだ戊辰戦争さなか)、前述する函館奉行所に代わり北海道開拓を主管するための行政機関として函館裁判所の設置(後の函館府、さらに開拓使へと変遷)が決定しています。

 北海道の馬産の発達は開拓の歴史的発展と軌を一にしており、明治2年(1869年)7月に開拓使が設置されると、この役所が開拓をけん引することとなります。前述する有珠・虻田牧や浦河牧は廃止され、明治5年に新たに改良増殖目的で新冠に牧馬場を開設しました。翌6年には七重(現七飯)勧業試験場、登別牧馬場、8年には根室牧畜場が開設されています。

 北海道の開発が進むにつれ物資の輸送、特に木材などの搬出や畜耕のための馬の需要も増えてきました。馬産の大きな転換は明治30年(1897年)北海道国有未開地処分法(明治41年改正)により大規模な土地の開拓が可能となったことがあげられます。この施策により大小多くの牧場が開設されました。

 一例をあげれば、早来町史には明治32年植苗村字フモンケ(現富岡地区)に、札幌在住であった吉田権太郎氏が吉田牧場を創設するための土地の貸し付けを受けたと記載されています。また、早くから軽種馬の育成を始めていたとされ、町史では安平村長より支庁長への報告文内に「牧場開設以来主としてサラブレッド種を飼育」との記載やサラブレッド種牡馬の飼養も記載もあります。この牧場は現在も同地区に引き継がれています。

 変わった例としては将軍家や殿様が興した牧場もあります。開拓初期の明治2年、当時の太政官政府は諸藩士族、団体などの志願者に土地を分与するいわゆる「蝦夷地分領支配」を布告しました。胆振地方の人ならば、この言葉を聞けば伊達藤五郎邦成(亘理伊達藩主)や片倉小十郎邦憲(白石藩主)、石川源太邦光(角田藩主)の名前を思い出すでしょう。市名に名を残す伊達邦成一行は有珠郡に入植し開拓を進めますが、その指揮を執ったのは家老常盤新九郎(のち田村顕允と改名)です(写真2)。彼らが西洋農法を取り入れるために長流川下流に「開墾農社」、黄金蘂(現黄金)に「牛社」を開設しました。この牛社は後年、田村顕允が引き取り黄金蘂牧場(田村牧場)となりました。この牧場は明治43年にやはり仙台藩に縁のある高橋是清が取得し、現在の高橋農場へと受け継がれています(伊達市史より)。この高橋農場は日本中央競馬会から委託を受け、昭和42年までアラ系抽せん馬の育成を行っておりました(写真3)。

 さらに新白老町史には徳川牧場の名前が出てきます。15代将軍徳川慶喜の家督を継いだ慶久が大正7年に当時あった白老牧場を購入したものです。この牧場は昭和3年に吉田善助氏に譲渡されています。この牧場では当初より軽種馬の生産を行っておりました。吉田善助氏の父は前述の権太郎氏の兄、善太郎氏です。すなわちその父、善治氏は数々の名馬を産出している吉田姓の牧場のルーツとなります。

 北海道の馬産は馬耕や貨物運搬用の馬を主体として発展してきましたが、胆振および日高地区では例外的にかなり早くから軽種馬すなわち競走馬の生産がなされてきたといえます。

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(写真2:伊達市開拓記念館の庭にある田村顕允の胸像)

  

3_2 (写真3:伊達市黄金にある黄金蘂牧場跡)

  

  

(軽種馬育成調教センター場長 高松 勝憲)

2020年5月13日 (水)

馬の胎盤停滞の新しい対処法について

No.143 (2016年3月15日号)

   

はじめに

 分娩後の繁殖牝馬は、新たに誕生した子馬の起立を促したり、授乳したりと気が休む暇がありません。そんな中、繁殖牝馬には、分娩後のもう1つの大きなイベントである「後産」が待っています。この後産とは、妊娠中の胎子を包んでいた羊膜や胎盤などを子宮から排出させることです。分娩の時と同じ様に、後産でも周期的な陣痛が起こることで、胎盤の排出が促されます。通常、胎盤は分娩後30分程度で自然に子宮から剥離し、排出されます。この胎盤が剥離するメカニズムについてはまだ良く分かっていませんが、後産陣痛が弱かったり、異常分娩(早産や流産)だったりすると胎盤の剥離が上手く起こらずに「胎盤停滞」となってしまうことがあります。今回は、この胎盤停滞の対処方法について、昨年末にアメリカ・ラスベガスで行われたAAEP(アメリカ馬臨床獣医師会)の年次大会において、興味ある講演があったので紹介したいと思います。

 

「馬の胎盤停滞に対する臍帯注水処置について」(Mark Meijer, DVM) AAEP PROCEEDINGS/2015/Vol.61/p478-484.

 オランダからの発表。馬の胎盤停滞の発症率は2-10%であり、特に異常分娩では高率に発症することが知られている。子宮内に固着した胎盤は剥がれるときに子宮粘膜を損傷したり、残骸が腐敗したりすることで、子宮内膜炎や蹄葉炎を引き起こし、不受胎の原因となる。通常、分娩後3時間を超えても胎盤が剥離し、娩出されない場合を胎盤停滞と呼び、オキシトシンの頻回投与による排出が試みられる。分娩後6時間を経過しても排出されない場合、用手での胎盤剥離が推奨されているが、無理に剥がすことのデメリットが大きい。

 演者らは、オキシトシン処置を実施しながらも6時間超過した胎盤停滞の147症例について、臍動脈あるいは臍静脈から水道ホースに弁を装着した自作の注水装置(写真1-A)を使用して、胎盤に水を注入することで(写真1-B,C)、停滞した胎盤に浮腫を起こさせ、剥離を促し排出させることを試みた。その結果、91%(135/147頭)の症例で、注水5-10分後に胎盤が娩出された(写真1-D)。排出されなかった12頭中8頭は、その後30分以内に排出され、残りの4頭は胎盤の一部が裂けてしまっていたため排出されない症例であった。症例馬たちに副作用は認められず、追跡可能であった12頭の馬はすべて妊娠も可能であった。

 

実際に試してみると

 帰国後、知り合いの獣医師に紹介したところ、さっそく流産で胎盤停滞を起こした症例に試していただく機会がありました。1例は、重種の双胎の流産例でした。流産後、片方の胎盤が24時間経過しても排出されなかったとのことでしたが、注水処置を実施し、10分後に軽く引っ張ったところ難なく排出されたとのことで成功した例でした。もう1例は、体位異常のため死産となった症例でした。胎子を整復して摘出後すぐに注水処置を実施したとのことでしたが、臍帯血が凝固していたため注水できず、胎盤を排出することができなかったとのことでした。このような症例には、本法は適さないこと考えられ、今後の検討が必要です。

 本法を実際に実施するにあたっては、予め道具を準備しておくことが何よりも重要と思われます。北海道の寒い分娩シーズンで実施するには、お湯を使用する必要があります。現場では、お湯を入れたバケツから小さなポンプを利用して注水するのが実用的かも知れません。また、サラブレッドの繁殖牝馬は神経質なため、無理な注水はパニックを引き起こす可能性も考えられます。臨床現場での応用には、どの程度の注水が必要なのか、安全性を確かめながら更なる検討が必要と思われます。とはいえ、従来の用手剥離による胎盤停滞の処置よりもはるかに母体に優しく生産性の向上にとても役立つことは確かです。今後の発展が期待されるところです。

 胎盤停滞への注水実演の様子は、インターネット動画サイトで閲覧することが可能です(Nageboorte behandeling paard methode Zeddam: https://www.youtube.com/watch?v=mfjR-MTg6ng&feature=share)。是非、一度ご覧ください。1_5 写真12 注水用の道具(A)と注水による胎盤剥離の様子(B-D)(AAEPプロシーディングから引用)

 

(JRA日高育成牧場 生産育成研究室 研究役 佐藤文夫)