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2021年7月

2021年7月27日 (火)

ウマにおける生殖補助医療

 サラブレッド競走馬の生産は本交配に限られていますが、世界に目を向けると、乗用馬はもちろんのこと、繋駕競走用のスタンダードブレッドも人工授精や受精卵(胚)移植で生産されており、アルゼンチンのポロ競技馬ではすでにクローン技術も臨床応用されています。残念ながらサラブレッドが主体である日本ではこのような技術が身近ではなく、十分に認知されていません。今回は競馬から離れますが、一般的なウマ生産技術のことも知っていただきたいという思いから、生殖補助医療(Assisted Reproductive Technology, ART)について解説いたします。ARTとはヒトの不妊治療分野でよく耳にする言葉ですが、獣医畜産分野においても胚移植(ET)、体外受精(IVF)、顕微授精(ICSI)など、おおよそ同様のことが行われています。

 まず人工授精(AI)について解説します。AIはARTに含まれませんが、ウマ生産のごく基本的な技術です。メリットはなんといっても馬の輸送が不要であるということです。そのため、労力・コストは大きく削減され、品種改良に大きく貢献します。AIに用いられる精液には生精液、冷蔵精液、凍結精液の3タイプがあり、それぞれの受胎性や保存性などの特徴に応じて使い分けられます。冷蔵精液を用いる場合、一般的に48時間程度は受胎能力が期待できますが、時間的な制約から採取した精液は直ちに輸送、精液の到着後迅速なAIの実施が必要となります。一方、主に国外から優良な血統を導入する目的で用いられる凍結精液は、半永久的な保存が可能である反面、受胎率が低くなることや凍結保存のための特殊な設備が必要であるなどのデメリットがあります。国内でこのようなAIを実施するには獣医師もしくは人工授精師の国家資格が必要ですが、ウマ人工授精師の資格であれば北海道十勝牧場で取得のための講習会が3年毎に開かれています。また現在、国内で精液を入手するためには、乗用馬であれば遠野馬の里、重種馬であれば前述の十勝牧場から精液を取り寄せる他、フランスからの輸入精液を販売する業者(現在国内では3社のみ)を利用する必要があります。

 ウマARTの中で最も一般的に行われているのがETです。これは母馬(ドナー)を妊娠させ、受精後1週間程度でその胚(受精卵)を回収、代理母(レシピエント)に移植するという技術です。優秀な競技馬は15-20歳あたりまで競技および騎乗者の育成に活用されるため、そこから繁殖生活を始めても高い受胎性は望めませんし、産駒数も限られてしまいます。しかし、ETであれば競技生活を送りながら産駒を得ることができるため、既に欧米ではハイクラス・良血の現役競技馬に対して実施されています。この技術の難点は、ドナーとレシピエントの発情周期が一致している必要がある点です。欧米の大規模なレシピエント牧場では繋養頭数が数百頭にも及ぶため、常に最適なレシピエントを選ぶことができますが、レシピエント候補馬の繋養頭数に制限がある日本でETを実施するためには、ドナーとレシピエント双方の発情を同期化するなどの工夫が必要となります。現在、日本でウマのETを実施しているのは、唯一帯広畜産大学のみです。

 体外(シャーレ上)で卵と精子を受精させる手法であるIVFはヒトでは最も一般的なART技術ですが、ウマの精子は体外では卵細胞を覆う透明帯を通過することができないため、実用的な方法ではありません。また、ICSIとはこのIVFをさらに発展させた技術になり、マニピュレーターという専用器具を用いて精子を卵細胞に直接注入する方法のことを指します。精子を注入した受精卵は、実験室内で1週間程度培養した後にレシピエントの子宮内に移植します。ETが1度に1つの胚しか移植できないのに対し、ICSIでは1度に10個前後の卵を採取できること、さらにその採卵処置を最短2週間ごとに繰り返すことができることから、短期間に多くの産駒をとることが期待できます。また妊娠が困難な高齢馬から産駒をとることができる点も大きなメリットです。一方でこの方法は卵巣から卵細胞を吸引回収し、人工的に受精させた受精卵を培養する必要があるため、ETに比べて高い技術やコストが要求されます。現在、国内でICSIを行える施設はありません。

 今回ご紹介したウマARTは、欧米を中心に既に世界各国で研究・実用化されている技術です。この分野において日本は世界に大きく遅れをとっていますが、2017年にフランスからの凍結精液輸入が解禁されたことでハイクラスの乗用馬生産に活路が見出されました。日本でこれらの技術を用いた乗用馬生産を根付かせるためにはまだまだ多くの課題がありますが、今後益々発展し、我が国のウマ産業のさらなる発展に繋がることが期待されます。

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ドナーから胚を回収する様子(ケンタッキー大学にて)

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ドナーから回収された胚

日高育成牧場 生産育成研究室 村瀬晴崇

人馬の信頼関係の強化:引き馬編~リトレーニングプログラムの応用~

はじめに

 昨年の第225号でもご紹介しましたが、JRAでは『引退競走馬のリトレーニングプログラム』の作成に取り組んでおります。プログラムが完成した暁には、『引退競走馬のリトレーニング指針』としての発刊も予定しております。今回は作成中のプログラムの中から、重点項目の一つである『人馬の信頼関係の強化』について2回に分けて紹介させていただきます。第一回目の今回は、『引き馬』をメインにお話することとします。

『引き馬』による信頼関係の構築

 我々のプログラムでは、グラウンドワークと呼ばれる、騎乗せずに地上から馬に働きかける手法を用います。グラウンドワークでは『プレッシャーとプレッシャー解除』を馬に分かり易く伝え、馬の動くスピードと方向をコントロールして人が『リーダー』となると同時に、人の横が『安全で快適な場所』であることを馬が理解するように働きかけます。『引き馬』はグラウンドワークの最も重要な基礎となる作業です。『引き馬』では前後方向にプレッシャーを与え、発進・後退(スピード有り・前後方向)と停止(スピード無し:ゼロスピード)を繰り返します。具体的な働きかけ方は以下の通りです。

  1. 発進

 引き綱(リード)をゆったりと保持し、舌鼓等の音声扶助や長鞭を使用して馬を発進させます。馬がしっかりとした常歩を開始したら後ろからのプレッシャーを解除し、馬の動きに同調して歩きます。徐々に扶助のフェーズ(段階・強さ)を下げ、最終的には扶助を使用しなくても馬が人の前進する動きに合わせて発進できるような関係を構築します。

  1. 停止

 引き運動中に人が馬についていくのをやめ、リードを譲らないことで鼻梁に鼻革があたり、馬が止まるように働きかけます。上手に停止できたらリードを緩めてプレッシャー解除します。最初は(ホー)などの音声扶助も利用しますが発進同様最終的には前触れもなく人が止まったら馬も停止できるような関係を構築します。

  1. 後退

 静止した馬の顔の前でリードの余り部分を回したり(写真1)、鼻面の前に左手をかざして前方からのプレッシャーを与えます。初期段階では、右手でリードを引っ張って鼻梁へ与えるプレッシャーも組み合わせると、後退の合図が馬に伝わりやすくなります。

 馬が人の動きに合わせて停止することを理解できていない、若しくは馬が自己主張している場合は、人の前方に進みすぎて停止します。その際は前方からのプレッシャーを与えて人が肩の位置に立てるところまで後退させてからプレッシャー解除します。この働きかけによって馬は人より前に進みすぎるのは間違いであり、人の横に収まっていれば余計なプレッシャーを受けないこと、つまり人の横が『安全で快適な場所』であることを理解します。また、前触れなく突然人が前進したり停止したりする動きに合わせて動くことで、人に意識を向ける(フォーカスする)ようになります。

 『引き馬』は単純な作業でもあるため軽視され易く、ついつい手を抜いてしまいがちです。馬房掃除で馬を移動させる際に人が前方に立って馬をノロノロ歩かせたり(写真2)、あるいは放牧する際に、馬が勝手に先に進むことを許容してしまったりすることがあります。調教とその他の『引き馬』の違いは、馬を混乱させる原因となり得ます。馬に勝手に動かれてしまうと人は『リーダー』ではなくなり、人馬の位置関係が間違っていることをきちんと馬に伝えなければ人の横が『安全で快適な場所』ではなくなってしまいます。馬を扱う際は常に細心の注意を払い、馬に余計な混乱をもたらさないように意識する必要があると思います。

 次回は馬と人との距離感(パーソナルスペース:支配領域)を利用した駐立の調教についてご紹介します。

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写真1:馬の顔の前でリードの余り部分を回して前方からプレッシャーを与えて後退を促す

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写真2:人が前方に立って馬をノロノロ歩かせ引き馬

JRA馬事公苑 診療所長 宮田健二

若馬の種子骨炎と予後

種子骨炎とは

 種子骨とは、関節部を跨ぐ靭帯あるいは腱構造に包まれている骨を指し、馬では球節の掌側(底側)にある近位種子骨、蹄内の遠位種子骨および膝関節の膝蓋骨などが知られています(図1)。この種子骨の役割は、運動時に骨や腱、靭帯にかかる負荷を分散させることですが、大きな負荷が反復してかかると損傷して炎症が起こると言われています。今回は、このうち近位種子骨の炎症(以下、種子骨炎)について解説します。

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1:馬の種子骨

診断・分類方法

 種子骨炎を発症すると、球節部の腫脹や帯熱の他、跛行(支跛)する可能性があり、発症馬は調教を中止し休養する必要があります。診断は主にX線検査で行われており、重症度にもよりますが、種子骨内の血管孔の状態を示す線状陰影の拡幅や増加、辺縁の靭帯付着部の粗造化や変形および骨嚢胞状の陰影が観察されます。これを基に、近位種子骨のX線画像を異常所見の無いものから順にグレード(G)0~3の四段階に分類(図2)することで、種子骨炎の重症度を客観的に評価できます。これらの情報は、JRAブリーズアップセールをはじめ、多くの若馬のセリ市場の上場馬情報として開示されており、購買を検討するうえで重要な情報の一つとなっています。

2:種子骨グレード(G0:異常所見なし、G1:2㎜以上の線状陰影1~2本、G2:線状陰影を3本以上・辺縁不正、G3:線状陰影多数・辺縁不正・骨嚢胞状陰影、%はJRA育成馬に占めた割合)

治療と予後

 局所の炎症やそれに伴う疼痛(跛行)が著しい場合、球節部の冷却や鎮痛消炎剤の投与が推奨されますが、基本となるのは運動制限(休養)です。また、必要とされる休養期間は、重症度により異なります(軽度:3~4週間、重度:3~6か月)。

予後の調査

 JRA日高育成牧場で育成馬を対象に行った調査では、育成馬の売却時の種子骨炎グレードと売却後に発症した疾病や成績との関連性について報告されています。前肢の種子骨グレードと競走成績の関連についての調査は、競走期のデータが不足している2歳馬などを除外した221頭で行い、前肢の種子骨グレードが高い馬はグレードが低い馬に比べて繋靭帯炎を発症するリスクが高いことが明らかになっています。

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グラフ1:種子骨グレードと前肢繋靭帯炎の発症率の関係

 一方、初出走までに要した日数や、2・3歳時の出走回数ならびに総獲得賞金に関する調査(550頭分)(グラフ2~4)では、種子骨グレードは出走回数や能力に殆ど影響していませんでした。また、一度も出走しなかった馬は9頭いましたが、いずれの原因も種子骨炎ではありませんでした。なお、出走回数や獲得賞金のグラフには一見差があるように見えますが、グレード3の中に活躍馬が含まれているためです

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グラフ2:種子骨グレードと初出走までに要した日数の関係

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グラフ3:種子骨グレードと出走回数の関係 

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 グラフ4:種子骨グレードと総獲得賞金の関係

最後に

 種子骨炎の発症を予防する方法は残念ながら報告されていませんが、JRA育成馬では、治療と休養後に調教復帰し、売却後に出走しています。他の疾患同様、早期発見・早期治療が最も重要となりますので、普段から注意深く馬体や歩様を観察することが重要です。また、種子骨炎を発症したことがある馬に対しては、調教を進めるにあたって定期的に検査を実施し、再発や繋靭帯炎などの続発を防ぐため、状態に合わせた調教、その後の患肢冷却および飼養管理を行うことが推奨されます。

日高育成牧場 生産育成研究室 琴寄泰光