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2022年12月

2022年12月14日 (水)

安全な分娩のための分娩予測

 温度計が氷点下を指し示す時期となり屋外での活動が厳しくなってきましたが、競走馬の生産牧場においては年明けから始まる分娩シーズンに向けての準備が着々と進んでいる時期でもあります。サラブレッドの分娩は、春の交配によって妊娠した繁殖牝馬に対する緻密な飼養管理を約11か月間も継続してようやく迎える競走馬生産の集大成であり、生まれてくる子馬が高額商品であることも相まって、逆子や生後直後のトラブルを予防し、より安全な分娩を実現するために多くの牧場で分娩介助が行われています。

 馬の正常な妊娠期間は、一般的に平均して妊娠335日程度と言われていますが、極めて少ない例外的なものも含めると妊娠300~400日程度まで大きく前後する場合があるとされており、交配日から算出した分娩予定日通りに生まれるとは限りません。そのため、生産地では分娩シーズンになると分娩予定日の近い馬を夜間に監視して、いざ分娩が始まったら迅速に介助できるよう備えなければならず、分娩監視にかかる労力とストレスは多大なものとなっています。そこで、本号では分娩監視の負担を軽減する分娩予測方法について、過去に紹介した内容に最新情報をアップデートする形で紹介します。

 

〇古くから行われてきた分娩予測方法

 牧場では繁殖牝馬ごとの過去の分娩前兆候の履歴を参考としながら、分娩予定日の2週間前から注意深く観察し、分娩時期を推定するのが一般的です。主な分娩前兆候には、①乳房の成熟(腫脹)(図1)、②漏乳(分娩に先立っての泌乳)(図2)、③臀部の平坦化、④外陰門部の弛緩(図3)、⑤体温の低下(通常は朝よりも夕方の体温の方が高い)などがありますが、誤差や個体差が大きいため、あくまでも目安にしかならないという予測方法です。

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図1:分娩3週間前(左)と分娩当日(右)の乳房

 

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図2:漏乳による乳汁が付着した後肢

 

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図3:分娩1ヶ月前(左)と分娩当日(右)の外陰部

 

〇科学的な分娩予測方法

 獣医師によって行われる分娩時期を推定する検査には、血清中プロジェステロン濃度の測定、乳汁カルシウム濃度の測定、子宮頸管の軟化の確認などがあります。計測機器や専門知識が必要なこれらの検査のうち、客観的かつ比較的信頼度が高い方法が乳汁カルシウム濃度の測定です。海外では一般的に普及しており、誰でも使える簡易キットが市販されていますが、残念ながらこの簡易キットは日本で販売されていません。

 しかしながら、乳汁カルシウム濃度の測定と同程度の精度を有し、特別な機器が不要で獣医師でなくとも実施可能な方法として、乳汁pH(図4)や乳汁Brix値(図5)による分娩予測方法があります。これらは市販のpH試験紙(6.2~7.6の範囲の測定が可能なpH-BTB試験紙)による乳汁のpH、および糖度計による乳汁のBrix値を指標とする方法です。日高育成牧場におけるデータでは、乳汁pHは分娩前10日以前には7.6以上を示しますが、分娩が近づくにつれ低下し始め、6.4に達してからは24~36時間で分娩する確率が約85%となりました。また、pHが6.4に達していなければ、24時間以内に分娩しない確率が約90%となりました。同様に、乳汁Brix値は分娩前10日以前には10%以下を示しますが、分娩が近づくにつれ上昇し始め、20%に達してからは36~48時間で出産する確率が約80%となりました。特筆すべきは、両測定法とも約30秒で測定が可能であり、経費も非常に安価であるため、牧場での応用に向いていると言えます。一方、当然個体差もあり、特に初産の場合、精度が低くなる傾向がありますので注意が必要です。また、個体ごとに急速にpHが低下するケースやpHが6.4に達してからも分娩までに日数を要するケース、pHが6.4に達することなく分娩を迎えるケースなど、毎年類似した傾向を示すことが多いので、データを毎年記録することが個体ごとの分娩予測精度の向上に役立つと考えています。

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図4:試験紙を用いた乳汁のpH検査                

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図5:糖度計によるBrix値測定

 

〇分娩予測方法の最新情報

 ここからは、技術や経験を必要としない海外で実用化されている分娩自動監視警報装置について紹介します。この方法は、①監視カメラで撮影された馬房内での繁殖牝馬の様子、②下顎部に装着したスマホ端末や姿勢感知装置からのデータならびに③体表温センサーからのデータを基に人工知能(AI)が分娩兆候を判断し、所有者のスマートフォンに専用アプリを介して警報を発するというものです(図6)。残念ながらこれらのシステムの説明には的中率が明示されておらず、また日本国内での使用の可否も不明ですが、海外では馬産業向けにこのようなシステムの開発が盛んに行われているようです。国内でもAIを応用した同様の分娩予測システムの実用化に向けた研究が進められていますので、より客観的な分娩予測方法として期待が高まります。なお、日高育成牧場では、現在も繁殖牝馬の分娩直前の行動パターン、発汗量などの指標により分娩予知の精度向上を目指した研究を進めているところです。

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図6:最新の分娩予測システム

 

 今回は分娩予測方法について、新旧交えていくつか紹介しましたが、いずれの方法でも測定値の変動傾向に個体差が有り、的中率が100%のものは存在しません。したがって、安全な分娩を実践するためには、繁殖牝馬毎の記録や身体的な分娩兆候の変化を参考にしつつ、複数の分娩予測を組み合わせて総合的に分娩に備えるのが最善だと考えられます。今後も、当場からの新たな研究成果の発信にご期待いただけましたら幸いです。

 

日高育成牧場 主任研究役 琴寄泰光

 

日高育成牧場における育成調教 ②競馬に向けてのトレーニング

 前号に引き続き、育成馬の調教について触れてみたいと思います。今号では競馬に求められる走行速度や走法などの走力の要素を向上させる「競走トレーニング期」についての考えをご紹介させていただきます。

 

1.競走トレーニング期とは

 競走トレーニング期は、競馬に求められる走行速度や走法などの走力の要素を向上させることが目的となります。

1)ピッチの強化

 ピッチの強化とは「単位時間当たりの歩数減少を抑制すること」であり、筋肉を動かし続けるスタミナを身に付けることで得られ、結果としてレース後半の疲労によるスピード低下の防止につながります。これには筋肉を動かし続けることが求められ、そのエネルギー源はATPであり、グリコーゲンがピルビン酸に分解される解糖系、および解糖系で産生されたピルビン酸を利用する有酸素系において産生されます(図1)。

Photo 図1. 解糖系と有酸素系によるATP産生

  • 速筋線維の解糖能および乳酸の利用

 筋線維には速筋線維と遅筋線維があり、速筋線維の方が解糖能に優れています。このため、解糖能を高めるには速筋線維を鍛えることが有効であり、人では呼吸が上がって苦しくなる程度の運動が必要とされています。解糖能の上昇により乳酸産生量が高まると、乳酸がピルビン酸に変換され、ミトコンドリア内での有酸素系のATP産生も高まりますつまり、解糖能が上昇すると解糖系と有酸素系の両方によるATP産生能が結果的に高まるということになります。これは競走馬も同様であり、競走トレーニング期の馬には、血中乳酸濃度が概ね10mmol/Lを超える運動負荷によって効果が得られると考えられています。

  • 解糖能の上昇とアドレナリン分泌

 運動強度が上昇すると、解糖系によるエネルギー産生が必要となるため、交感神経優位の状態になり、アドレナリン分泌によって心拍数および血液循環量が増加します。アドレナリンは馬では恐怖や不安などのストレス状態下において、その状況から逃れるために身体や脳の機能を高める物質です。一方、過剰なアドレナリン分泌は、エネルギーの大量消費を誘発するため、体力を消耗しやすくなるのみならず、攻撃性や慢性的な疲労等を誘発する負の部分も有しています。

 馬は名誉心などなく、自ら苦しい調教を耐えようとしないため、競走馬の調教では交感神経と副交感神経のバランスを常に維持するように注意し、オーバーワークは避けなければなりません(図2)。このことが人のアスリートとは比較できないくらい競走馬の調教の運動量が少ない理由と考えられています。

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図2. 交感神経と副交感神経のバランスが重要

  • ミトコンドリア内のATP産生能と母系遺伝

 ミトコンドリアDNAは受精の過程で母親のミトコンドリアのみが子に受け継がれると考えられています。つまり、有酸素能力に大きく影響を及ぼすミトコンドリアの質は、母親の質に左右されるため、調教によって向上するミトコンドリア内のATP産生能は先天的にある程度決まっているものと推測されます。このことがサラブレッド競走馬において、母系の血統が重要視される理由のひとつであると考えられています。

2)ストライドの強化

 ストライドの強化に関連する重要な要素は、陸上でもストライドと強い相関関係を持つ着地直前のスイング速度です(写真1)。つまり、後肢を前方に大きく振り上げて、着地に向けて肢を引き戻してスイング速度が上がることによって、着地の瞬間に働く地面からの制動力が抑制されて推進力が維持され、結果としてストライドが伸展すると考えられます。

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写真1. 後肢から繰り出される運動エネルギーは踏込よりスイング速度が重要

2.育成調教における騎乗者の役割

 競馬では馬7:騎手3という言葉がありますが、これは競馬における馬と騎手の重要度の比率を意味しており、競馬での騎手の役割は、馬の能力には及ばないと考えられています。一方、日々の育成調教においては、騎乗方法によって、柔軟性やランニングエコノミーを向上させることが可能となることもあるため、その概念について説明します。

1)項靭帯の伸展を利用した騎乗

 項靭帯とは頭蓋骨の後面からキ甲まで走行する靭帯であり、キ甲から仙骨に走る棘上靭帯と連続しています(図3)。そのため、項靭帯が伸展すると前躯と後躯が連結して、全身を使用したランニングエコノミーの向上が可能となります。

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図3 項靱帯は棘上靱帯に移行して前後を連結する

2)ハミを利用した項靭帯の伸展

 項靭帯を伸展させるためには、頭頚の位置を一定に維持するハミ受けという技術が不可欠です。ハミ受けによって頭頚が固定されて項靭帯が伸展し、後躯から発生したエネルギーが項(うなじ)を頂点とした項靭帯に蓄積されます。その蓄積されたエネルギーの一部は前肢を高く上げることに利用され、結果として踏着前のスイング速度が高められます。これにより、前肢の着地が遅延するとともに地面との接地時間の短縮が可能になり、着地による制動力が最小限に抑制されます。また、項から棘上靭帯を通して腰部と連結している項靭帯に蓄積されたエネルギーは、しなった釣竿のように骨盤の沈下を生み出します。これによって後肢が大きく前方に振り上がり、後肢のスイング速度も上昇するため、ストライドが大きくなり、走行速度も上昇します(図4)。

 

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図4. 項靱帯の伸展による効率的な走行フォーム

 

3.最後に

 競馬というスポーツは、サラブレッドという種の育種、つまり「速く走る」という遺伝子を持つ個体を選抜する目的で行われているため、捕食者から逃れるという本能を発揮させなければなりません。一方、馬は名誉心などなく、自ら苦しい状況を選択しようとはしないと思われます。そのため、調教時には馬との意思疎通を図るために副交感神経を優位に、競走時にはより速く走らせるために交感神経を優位にというように相反する精神状態を巧みにコントロールする技術が不可欠となります。しかし、馬は機械ではなく意思を持つため、個体差が大きいのも事実です。このことが画一的な調教が困難である理由であるとともに、人馬一体を成し遂げ得た時の喜びが非常に大きく、古来、多くの人を魅了し、そしてこれからも多くの人を魅了する理由でもあるのだろうと考えています。

 

日高育成牧場 副場長 頃末 憲治

 

2022年12月 6日 (火)

強い馬づくりのための生産育成技術講座資料 ①若馬の昼夜放牧における放牧草の採食量

12月6日(火)17時開始オンラインセミナー資料

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若馬の昼夜放牧.pdfをダウンロード

強い馬づくりのための生産育成技術講座資料 ②繁殖牝馬におけるPPID(下垂体中葉機能障害)(いわゆるクッシング病)

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繁殖牝馬におけるPPID.pdfをダウンロード

強い馬づくりのための生産育成技術講座資料 ③JRAホームブレッド生産のまとめ

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JRAホームブレッド生産のまとめ.pdfをダウンロード

2022年12月 2日 (金)

日高育成牧場における育成調教 ①ブレーキング

 サラブレッド競走馬は1歳秋に「ブレーキング」とよばれる騎乗馴致を開始します。JRA日高育成牧場で実施している騎乗馴致に対する考え方について、今号と次号にわたってご紹介させていただきます。

 

1.調教のステージ

 サラブレッドは競走馬としての活躍を期待されてこの世に生を受けますが、本来、臆病であり人を乗せて走るまでには様々なステップを経なければなりません。そのため、育成期のステージは騎乗するまでの「初期調教期」、基礎体力を養成する「基礎トレーニング期」、競馬に求められる走行速度や走法などの走力の要素を向上させる「競走トレーニング期」の3期に分けて、段階を踏んで調教を実施しなければなりません。

 

2.初期調教期

 初期調教期は馬に人を乗せることを許容させることを目的に実施します。馬は運動する際にバランスが崩れると不安に陥ります。騎乗を許容させるには、騎乗者は馬上でバランスを崩さずに馬の動きに同調、つまり騎乗者自身の重心と馬の重心とを一致させなければなりません。直線運動時には騎乗者は比較的容易に重心を一致させることができますが、回転運動時に人馬の重心を一致させることは容易ではありません。その理由は、人は回転運動の際には、自転車で回転する時のように進行方向に腰を回転しますが、馬は頭頚を外側上方に向けて馬体を内側に倒して回転する習性があるためです。つまり、回転時に人と馬は本能的に相反する態勢をとることが原因となります。

 
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写真1.馬の自然な回転と内方姿勢での回転

 

 回転時に人馬の重心を一致させるためには、騎乗者が自転車を操作する時のような姿勢での回転が可能となるように、馬に内方姿勢と呼ばれる体勢を取らせて回転させることを教える必要があります(写真1)。そのためには、ランジングやドライビング調教が非常に有効であり、これらのプロセスを総じてブレーキンと呼んでいます。なお、ブレーキングとは騎乗時に手綱を引いて馬が止まるブレーキ(brake)を馬に教えることではなく、それまで群れでの放牧によって培われてきた馬社会の約束事を壊す(break)ことであり、新たに人と馬との約束事を構築することを意味します。ブレーキングは、決して人が力任せに馬を屈服させることではなく「馴らして目標とする状態に至らしめること」であり、馬に人の要求を強要させるのではなく、馬が人の要求を自ら行うように仕向ける姿勢が重要です。その原理原則は、人が馬に対して何かを要求する指示(プレッシャー)を与え、そのプレッシャーから馬が逃げる方向が、人が要求するものと一致するよう馬を導くことです。人の要求が達成された際には、持続して与えていたプレッシャーを即座に解放(オフ)してあげることで、馬は楽になれることを理解します。つまり「プレッシャーオフ」とは馬が要求に応じた際、即座に声をかけたり愛撫をしたりして褒めることともいえます。馬は草食動物であるので、危険あるいは不快なもの(プレッシャー)からは回避すると同時に、同じ場所にとどまって草を食べる安住の場所(プレッシャーオフ)を求めています。ブレーキングでは、この習性を利用することが非常に重要となります。

1)遠心運動を利用したランジング調教

 ランジングにおける円運動では遠心力が生じるため、馬はバランスを維持しようとして、手綱が連結した内側のハミを支点として頭頚を少し内側に向けて馬体を湾曲させます。これこそが騎乗者が回転時に人馬の重心を一致させやすくなる体勢であり、円運動を行う最大の利点は、馬にこの内方姿勢に近い状態でのバランス維持を習得させることが可能となる点といえます(写真2)。

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写真2. 遠心力を利用したランジング

2)ドライビング調教

 ドライビング調教とはハミに連結した2本の長い手綱を馬の後方で馬車のように操作して、騎乗する前に開き手綱による回転やハミと口角との間に遊びのスペースを設けてハミに頼ることなく馬自身によるバランスで運動することを教える調教方法です(写真3)。前述のランジングで教えた内方姿勢での左右両側の回転のみならず、前進や停止など騎乗時と同様の合図を騎乗することなく習得させることを目的にドライビングを実施します。つまり、騎乗時と同一の扶助で馬を操作し、騎乗後にも一貫した扶助で馬を操作することによって馬に混乱を生じさせないことが安全な騎乗へとつながります。

 開き手綱の理解や重心移動の習得を目的に、ドライビングによるスラロームや8の字運動などで手前変換を行う際には、前進気勢と馬自身によるバランスを維持した体勢(セルフキャリッジ)の維持に留意しなければなりません。特に、前進気勢の重要性はどれほど強調してもし過ぎることはありません。例えるなら、止まっている自転車のハンドルをいくら動かしても曲がれないのと同様で、ドライビングにおける馬の前進気勢は絶対条件となります。そのためにも前進気勢が維持しやすく、さらに、重心のブレが少ない速歩の方が常歩よりも容易に実施できます。

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写真3. ドライビングによる左右の内方姿勢

 

3.基礎トレーニング期

 基礎トレーニング期は騎乗による基礎体力の養成を目的に、キャンターでの調教に多くの時間を費やさなければなりません。しかし、初期調教を終えたばかりの馬は、未だ騎乗者の荷重に慣れておらず、バランスの維持が困難な状態にあります。そのため、キャンターでの調教を実施する前に、騎乗した状態で放牧地における馬自身によるバランスを維持した体勢を習得させる必要があります。

 キャンターでのセルフキャリッジを習得させるためには、人馬の重心の一致を図ることを目的として、騎乗者には馬の重心に近い鐙上にバランスを維持する技術が求められます(写真4)。また、セルフキャリッジは馬の重心の移動や頭頚の動きが少ない速歩でより習得しやすいことから、速歩調教を繰り返し実施した後にキャンターでの調教に移行することが非常に重要です。また、この時期には競馬の要素として不可欠な群れでの走行に慣らすことも重要となります。

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写真4. 馬の重心と鐙の位置の関係

参考動画
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日高育成牧場 副場長 頃末 憲治

育成期の運動器疾患

はじめに

 多くの育成場では、育成馬の騎乗馴致を開始している頃だと思います。トレセンや競馬場に移動するまで順調に調教が進む場合もあれば、疾患の発症によって休養を余儀なくされる場合もあるでしょう。今回は皆様の悩みの種となる育成期における運動器疾患について紹介させていただきます。

 

離断性骨軟骨症(OCD

 軟骨内骨化の過程に異常をきたす疾患で、関節軟骨の糜爛や剥離を生じさせる骨端骨化異常と考えられています。好発部位は球節、肩関節、飛節、膝関節であり、特に飛節でよく認められます。跛行等の臨床症状を認めることが少ないため、セリ上場に際するレポジトリー検査のX線撮影時に偶発的に発見されることがほとんどです。なお、X線検査で所見を認めていても無症状であることが多く、これらの場合は育成調教および出走に影響を与えることは少ないと考えられています。JRA育成馬を用いた調査においても、飛節のOCDを認めた馬と非OCD馬の出走時期および出走回数に有意な差は認められませんでした。一方、OCDに起因する跛行が継続する場合には、関節鏡による骨軟骨片の摘出手術が必要となることもありますので注意が必要です。

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図1.飛節(距骨滑車外側稜)のOCDのX線所見

  • この馬は育成期間中を通して症状を示さず2歳7月に出走

 

軟骨下骨嚢胞(ボーンシスト)

 関節軟骨の下にある骨の発育不良により発生する骨病変で、栄養摂取や成長速度のアンバランスなどの素因がある子馬において関節内の骨の一部に過度の物理的ストレスが加わることで発症すると考えられています。好発部位は前肢の球節、指骨間関節、肩関節、膝関節であり、前述のOCDと同様にセリ上場に際するレポジトリー検査のX線撮影時に偶発的に発見されることがほとんどです。骨嚢胞が認められても、調教に支障をきたさない場合もありますが、特に膝関節の軟骨下骨嚢胞に起因する跛行などの臨床症状が認められた場合は、長期休養が必要になることもあります。治療としてはステロイド投与、シスト領域へのスクリュー挿入や掻把等があります。

 

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図2.大腿骨内側顆における軟骨下骨嚢胞のX線所見(グレード1~4)

 

近位繋靭帯付着部炎(深管骨瘤)

 繋靭帯と第3中手骨の付着部位における炎症の総称です。原因として繋靭帯の役割が関わっていると考えられています。馬が走行する際には球節が沈み込み、繋靭帯はそれを元の位置へ戻そうと球節を上に引っ張り上げる役割があります。そのため、繋靭帯付着部では下へ引っ張る強いテンションがかかることによって炎症が起こります。

 軽度~中程度の跛行を示し、患部の触診痛や熱感を伴うこともありますが、触診痛を示す症例は少なく、さらにX線検査や超音波検査といった画像診断で異常所見を認める症例も多くありません。そのため、所見が認められない場合には、局所麻酔による跛行改善を確認することで確定診断を行います。軽傷であれば比較的早い調教復帰も可能ですが、再発例も多く認めることから、慎重なリハビリを行うことが重要です。

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図3.赤丸内が繋靭帯付着部

 

ウォブラー症候群(腰フラ)

 頸椎脊髄の圧迫に起因する運動失調を示す疾患で、主に後肢で多くみられます。発症時期は4~24ヶ月齢、特に生後4~8ヶ月齢と14~18ヶ月齢の二峰性の好発時期があると考えられています。サラブレッドの発症率は1.3~2.0%といわれており、牡馬は牝馬よりも発症率が高いという調査結果があります。発症原因は遺伝や栄養バランス、成長障害、外傷などが考えられており、診断方法としてはX線検査やCT検査があります。予後は悪く、発症後に運動失調が進行する場合が多く、重症例では起立不能となります。軽症例では、抗炎症剤の投与や馬房内休養、過度な成長を抑制するために飼料給与量を75%に制限した食餌管理法を実施することで症状が改善される場合がありますが、根本的な治療にはならないことがほとんどです。

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図4.第3頸椎の脊椎管狭窄部位のX線所見(この狭窄が主に後肢の運動失調を誘発)

 

最後に

 早期発見が重要になってきますので、歩様の異常、下肢部の腫脹、関節液の増量など些細な変化を見逃さず、日々チェックやケアをしていくことが不可欠です。

 

JRA日高育成牧場 業務課 久米紘一

獣医学生実習「サマーキャンプ」を終えて

 日高育成牧場では、競走馬の育成のみならず、将来の馬産業を担う人材育成も積極的に行っています。その一つが、獣医学生を対象とした実習プログラム「JRA日高サマーキャンプ」です。

 

学生に実習機会を提供し、馬を知ってもらう

 日本の獣医大学では、大学によって多少の差異や特色があるものの、実習には犬や牛が使われることが多く、馬についての実習はほとんど行われていないのが実情です。そこで、日高育成牧場では馬に興味のある学生のために、馬に直接触れる実習を2009年から行っています。

 昨年と一昨年は新型コロナによる緊急事態宣言などのため中止を余儀なくされましたが、今年は第7波のさなかではありましたが、さまざまなイベントが再開されつつある社会情勢を鑑み、十分な感染予防策を講じたうえで開催することになりました。また、今年はまだ実習を見合わせる機関が多かったことから、できるだけ多くの学生に実習機会を提供するため、例年は1週間だけの開催であるところ、今年は8月22日~26日と8月29日~9月2日の2週に分けて合計12名の学生を迎えました。

 

VPcampで幅広く募集

 参加者の募集は、以前はJRAホームページで告知して行っていましたが、現在はVPcampを通じて実施しています。VPcampとはVeterinary Public health campの略で、NPO法人獣医学教育支援機構が実施している、獣医学生を対象とする家畜衛生・公衆衛生獣医師インターンシッププログラムのことです。このプログラムは、主に行政分野で活躍する公務員獣医師を育成することを目的としており、国や都道府県の研究施設や家畜保健衛生所などが対象ですが、JRAもこの活動に協力する形で参加しています。VPcampを通すことで、最初から馬の獣医師になると決めている学生だけでなく、進路が未定で実習先を探しているような学生にも目に留めてもらうチャンスが広がり、幅広く学生を募集することができるのは大きなメリットだと思われます。

 

実習は初心者目線かつ高度なものを

 参加者の中には初めて馬に触れるという学生もたくさんいますので、まずは馬へのアプローチや頭絡のつけ方、体の触り方などから始めます(写真1)。そして馬房掃除、集放牧で牧場の仕事を体験し、乗馬実習では全身で馬を感じてもらいました(写真2,3)。

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写真1 牧場実習(体温測定)                     

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写真2 牧場実習(集牧作業)

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写真3 乗馬実習                                

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写真4 臨床実習(直腸検査)

 その一方で、臨床実習も行います。主に繁殖牝馬を使って、聴診や触診といった基礎的な実習から、直腸検査やレントゲン撮影、心臓のエコー検査など、大学ではなかなか経験できない実習を行っています(写真4,5,6)。

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写真5 臨床実習(心臓エコー検査)                    

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写真6 臨床実習(採血)

 近年の獣医学生は臨床実習に参加するにあたり獣医学共用試験(VetCBTとVetOSCE)に合格する必要があり、今回の参加学生も全員この試験に合格しています(いわゆる仮免許のようなものです)。これにより獣医師の指導のもと診療行為に参加することができるため、一歩踏み込んだ実習を行いやすくなりました。

 参加学生は、新型コロナの影響で大学の授業がオンライン形式になったり、実習も大人数を避けるため分割・縮小されるなど、とても満足とはいえない状況が続いていることもあってか、少人数制で時間をかけてじっくりと経験できる今回の実習に対して非常に生き生きとした表情で取り組んでいました。

 

馬の獣医師希望者を増やすために

 サマーキャンプは、実施する側にとっては求人活動という意味合いも含まれています。参加学生は将来馬の獣医師になりたいという明確な意思をもって参加している学生もいれば、他の業種、例えば小動物臨床と迷っているという学生もいます。初めから馬に進みたいという学生は、こちら側から積極的にアプローチしなくても馬の世界への進路を選択してくれますが、迷っているという学生に対しては、本実習で実施したように馬そのものの魅力を伝え、できるだけ分かりやすくインパクトのある実習により馬の臨床の面白さを伝えることで、馬の世界への進路を選択してもらえるよう後押しするのが重要な役目になっていると考えています。

 JRAでは、馬の獣医師の志願者を増やす試みとして「競走馬および乗馬の獣医師を志す学生を支援するための奨学金制度」を日本国際教育支援協会(JEES)の協力のもと実施しています。受給学生は本実習のようにJRAが実施する研修や研究発表会に参加することを義務として課していることから、否が応でも馬に興味を持ってもらえます。支給期間は5年生の4月から24か月間であることから、きっかけをつかむには少し時期は遅いかもしれませんが、馬の獣医師になることを決めている学生には新たな気付きの機会となり、進路を決めかねている学生には馬の世界を知ってもらう契機になるものと考えられます。今回の実習には、奨学金受給生が5名参加していましたが、この奨学金制度が繋いだとも言えます。

 サマーキャンプのような活動を通じて少しでも多くの学生に馬に興味を持ってもらい、将来の馬産業を担う人材になってほしいと願っています。

 

日高育成牧場 生産育成研究室長  関 一洋