2021年7月28日 (水)

人馬の信頼関係の強化:駐立編 ~リトレーニングプログラムの応用~

はじめに

 今回は馬と人との距離感(パーソナルスペース:支配領域)を利用した『駐立』の調教についてお話します。

パーソナルスペースとは?

 人におけるパーソナルスペースとは、他人に近づかれる(侵入される)と不快に感じる空間のことで、『対人距離』、『パーソナルエリア』とも呼ばれます。馬は、自分が主張する『支配領域』である球状のパーソナルスペースを持つといわれています。馬の群れは、リーダーを頂点とする階層社会ですので、パーソナルスペースは順位付けに利用されます。集団放牧の際、不用意に近づいた馬を威嚇して追い払う『強い馬:群れでの階級が高い馬』や、『弱い馬』が『強い馬』の侵入を許容し、場合によってはスペースを譲る光景を見たことがある方も多いと思います。この習性を利用して、馬に『駐立』を教えます。

『駐立』の調教

 『駐立』に問題のある馬の多くは、必要以上に保持者(駐立させている人)に接近してじゃれたり、周囲の刺激を気にして落ち着かなかったり、動きまわります。前者は『リーダー』である人のパーソナルスペースに侵入することを、保持者が許容してしまうことが問題であり、後者は保持者にフォーカス(意識を向ける)せず、勝手に動いてしまうことが問題です。これらの問題を解決するために、以下2種類のグラウンドワークによる働きかけを活用します。

  1. 横方向の働きかけ

 適度の距離を置いて馬の正面に立ち、プレッシャーによって前肢を軸に後躯を回転させることを目的とします(図1)。最初に『リーダー』となるべき人(自分)と馬のパーソナルスペースをイメージします。次に、馬の斜め前方のパーソナルスペースに侵入し、腰角付近にプレッシャーを与えます。腰角に向けてリードを振り回す、あるいは長鞭を使って腰角を刺激します。初期は一歩でも動いたら、直ちにプレッシャーを解除し、停止したら馬を褒めます。プレッシャーに反応しない場合は、徐々にプレッシャーのフェーズ(強さ:段階)を上げ、馬が反応したら解除します。反対に、馬が人の要求以上に動き過ぎてしまう場合にはプレッシャーのフェーズを下げ、馬が反応した瞬間に解除します。馬が勝手に動くのではなく、人の指示に従って要求されただけ後躯を動かすことが大切です。なお、後躯を回転させた際に馬が前進して人のパーソナルスペースに侵入してしまう場合には注意が必要です。馬の前進に対して、人がスペースを譲って(後退して)しまったら、馬に主導権が渡ってしまいます。馬に人のパーソナルスペースを強く意識させる必要があります。

  1. 前後方向の働きかけ

 正面からのプレッシャーコントロールによって馬を前後方向に動かすことを目的とします。最初は馬の正面に立ち、頭部や胸前にプレッシャーを与えて後退させます(図2)。後退を促すプレッシャーとしては、リードを振り回すことや、目線などのボディーランゲージを使用します。なお、反応しない馬には無口が動くほどリードを揺らしたり、余ったリードを鼻先に触れさせたりすることによって段階的にフェーズをコントロールします。後退したらプレッシャーを解除し、停止したら褒めます。次に、人が後退しながら馬から離れ馬を呼びます(図3)。最初は軽くリードで引っ張る、あるいは人が前かがみになって伏し目がちになることで馬は前進しやすくなります。人のパーソナルスペースに侵入しない位置で馬を停止させて褒めます。停止の際に馬を褒める行為によって、馬に考える時間を与えることができます。考えて理解する時間を与えれば、調教はよりスムーズに進むと思います。

 『駐立』できない馬の問題は、この二つの働きかけで改善できると思います。馬の動くスピードと方向は、人がコントロールしなければなりません。馬が勝手に動いて(スピード有り)も、止まって(スピード無し)も『駐立』はできません。人が明確な目的を持って分かり易く働きかけることで、馬は人にフォーカスします。馬と適切な距離を保ち、動いてしまう馬にはプレッシャーを上手に使って人が馬を動かし、プレッシャー解除によって馬に自ら停止することを選択させられれば、自然と『駐立』できるようになると思います。

図1 横方向の働きかけ

馬の腰角にプレッシャーを与えて後躯を動かします。

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図2 前後方向の働きかけ①

頭部や胸前にプレッシャーを与えて後退させます。

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図3 前後方向の働きかけ②

馬が前進しやすい態勢で馬を呼び込みます。

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JRA馬事公苑 診療所長 宮田健二

離乳時のコンパニオンホース導入の効果

 当歳馬の離乳についてJRA日高育成牧場では、伝統的な“母子の群れから子馬だけを引き離す”方法ではなく、“母馬の方を数頭ずつ順に群れから引き離していく”「間引き法」と呼ばれる方法を行ってきました。近年では、間引き法と併用して「コンパニオンホース」の導入による離乳後のストレス緩和を試みています。今回は、当場における過去数年間の離乳期の当歳馬の体重データから、コンパニオンホースの効果を検証してみたいと思います。

・コンパニオンホースと間引き法

 現在、当場で行っている離乳の方法を簡単にご紹介します。まず準備として、子育て経験豊富かつ当年は子付きではない牝馬(コンパニオンホース)を予め離乳の前から母子の群に混ぜて馴らしておくことが必要です。離乳は計画的に数頭ずつ数回に分けて、群れにストレスを与え過ぎないように注意しながら行います。具体的には、離乳させたい子馬を2~3頭選択し、放牧中の母子の群れからその子馬の母馬だけ静かに引き出し、視覚的にも聴覚的にも隔離された別の放牧地に移動させるという作業を1週間毎、最終的に群に母馬がいなくなって子馬とコンパニオンホース1頭だけが残っている状態になるまで繰り返します(図1)。コンパニオンホースは乳汁こそ出せませんが、不安で嘶く子馬たちの中でも悠然と構えているため、この方法であれば子馬たちの不安を軽減してくれるのではないかと期待しています。

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図1. 離乳後の子馬とコンパニオンホース(矢印)

・コンパニオンホース導入の効果検証~当歳馬の体重データから~

 当場では、2013年より離乳時のコンパニオンホースの導入を開始しましたが、2009年以降に誕生したJRAホームブレッド計82頭の体重を比較したところ、コンパニオンホース導入前は離乳後に平均4.54kgも体重が減少していたのですが、導入以降は平均2.72kgの減少に留まっています(図2)。この差は統計学的にも有意な差であり、コンパニオンホースの導入により離乳後の当歳馬の体重減少を抑えられることがわかりました。

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図2 コンパニオンホース導入前後の離乳時の子馬の体重減少

・コンパニオンホースと引き離す際の当歳馬の体重減少

 一方、離乳後のコンパニオンホースはどうするのか?という問題が残ります。海外の文献の中には、「コンパニオンホースと離乳した子馬を引き離す際に、離乳時と同等のストレスがかかる」と書かれているものもあります。そこで、“第二の離乳”とでも呼ぶべき離乳後の子馬からコンパニオンホースを引き離す際の影響について、同様に体重減少を比較してみました。2013年以降に当場で生まれたJRAホームブレッドのうち、データが残っていた31頭について、コンパニオンホースを引き離す前後の体重を比較した結果、体重は平均0.35kg増加していました!。図2でお示しした通り、離乳時は体重が減少するのが通常であり、減少した体重の平均値は前述のとおりコンパニオンホース導入前で4.54kg、導入後で2.72kgでした。統計学的に解析したところ、第二の離乳による体重の増減幅は、これら離乳前後の体重の減少幅と比較しても有意に少ない、つまり第二の離乳は子馬の体重に影響を及ぼすほどストレスを与えない可能性があることがわかりました(図3)

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図3 子馬の体重減少の比較

・“第二の離乳”で体重が減少した当歳馬もいる

 前述の通り、第二の離乳前後の体重の増減は平均するとプラスとなりましたが、中には体重が減少した馬もいました。図4にその内訳を示しますが、最大で4kgも体重が減少した子馬がいました。

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図4 “第二の離乳”での子馬の体重減少の内訳

 以上のことから総合的に判断すると、離乳した子馬からコンパニオンホースを引き離す“第二の離乳”について、多くの場合は問題ないが中には注意しなくてはならない馬もいる、という結論が導けそうです。結局のところ、特に当歳の子馬については日頃からよく観察し、離乳時には個体の状況を勘案して個別にケアしてあげることが大切だと言えます。

 毎年、離乳後の子馬のコンディションが悪くなってしまうことにお悩みのようであれば、当場で成果を挙げているコンパニオンホースの導入も一つの方法としてご検討いただけましたら幸いです。

JRA日高育成牧場 専門役 遠藤祥郎

蹄充填剤と接着装蹄法について

 今回は装蹄に使われる蹄充填剤と蹄充填剤を用いた装蹄法についてご紹介させていただきます。

・蹄充填剤とは・・・

 馬の蹄は1か月に約10mm程度の生長をしますが、運動をすることで蹄は擦り減ります。もし、蹄の伸びる量よりも減る量のほうが多くなると、知覚部が露呈してしまい、疼痛を伴うようになってしまいます。蹄鉄を装着することは、このような過剰な蹄の擦り減りを防止して保護することを目的としています。

 一般的に、蹄鉄は蹄釘(ていちょう)と呼ばれるれる釘を蹄壁に打ち込んで装着します。しかし、蹄壁欠損などの理由によって蹄釘を打ち込む場所が確保できず、蹄鉄の装着が困難になるケースもよくあります。一昔前であれば、このようなケースの馬は蹄壁が伸びるまでの期間の休養を余儀なくされていたのですが、蹄壁の欠損部を補える充填剤が開発されたことでこのような問題が解消されるようになりました。

 皆さんもよく耳にするエクイロックス(Equilox社製)はこのような充填剤の一つです。充填剤は2種類の薬剤が混ざり合うことで硬化する、蹄専用の樹脂素材のものが一般的で、蹄壁(蹄の外側)に塗布するものと蹄底(蹄の裏側)に充填するものの2種類に大別されます。

  1. 主に蹄壁に使用する充填剤

 ・エクイロックス

 蹄壁の欠損によって、蹄釘での装蹄が困難な場合に使用します。薬剤混合時の化学反応の際に熱を発します(約60℃)が、この熱が硬化を促進します。したがって硬化時間は外気の影響を受けやすく、製品にも夏用(エクイロックスNO.Ⅰ)と、冬用(エクイロックスNO.Ⅱ)がラインナップされています。それぞれの硬化時間は夏場に夏用を使用したときは5~10分程度、冬場に冬用の時では少し延長して10~15分程度が必要となります。使用する際の注意点として、水分・油分や汚れが付着していると上手に蹄壁に接着できないことがあるため、事前にアルコール、金ブラシや紙ヤスリを使用し除去するなどの下準備が必要です。正常に硬化すると、蹄壁と同等の硬度が得られます。

【使用例】

 写真1の左は、蹄壁の欠損によって蹄の強度が保たれなくなった症例です。右の通り欠損部にエクイロックスを充填し、仮の蹄壁を作成したことで蹄自体の強度が保たれました。

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 またエクイロックスは、度重なる釘打ちなどで蹄下部が崩壊して釘打ちが困難な症例に対して蹄釘を使用しない接着装蹄法を選択する場合などに用いることもあります。(写真2)

 接着装蹄法での使い方も蹄壁に充填する時と同様に、蹄の接着予定部分を綺麗にすることから始めます。綺麗にした部分は水分や汚れが付かないように蹄ごとラップなどで巻いて保護してから肢を降ろします。ここまで準備ができたら、蹄鉄の蹄負面側(蹄と接着する面)にエクイロックスの薬剤を塗布して蹄鉄を蹄に合わせて接着します。蹄鉄の接着をより強固なものとするため、さらに蹄踵部(蹄の後半部分)の隙間にエクイロックスを充填して埋めます。仕上げにヤスリを掛けて完成です。

写真2

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・スーパーファスト(Vettec社製)

 プラスチック樹脂であることからエクイロックスに比べて硬く、蹄の輪郭に盛り付けることで歩様や肢向きの改善など、主に肢軸異常の矯正に使用します

【使用例】

 写真3は当歳馬の左前肢で、蹄の内向を矯正するために、スーパーファストを蹄外側に張り出すように盛り付けています。張り出しを作ることにより、内側に掛かる力を外側に分散させる効果が期待できます。また、歩様の際も蹄の外側が先に地面に接地するようになり、内側に傾く歩様を矯正することができます。

写真3

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  1. 蹄底に使用する充填剤

・エクイパック

 シリコン樹脂で硬化してもある程度柔さを保っているのが特徴です。挫跖や裂蹄など、蹄底への負重時に疼痛がみられる際の蹄底保護に使用します。

・エクイパックCS(写真4左)

 エクイパックに硫酸銅を混合した充填剤です。硫酸銅の混合により、蹄底への充填剤挿入が長期間に及ぶ際に起こりやすい蹄叉腐爛や、蹄底の脆弱化が予防できます。

・アドバンスクッションサポート(ACS)(写真4右)

 主に蹄葉炎の予防、治療に用います。粘土状の2種類の薬剤を混ぜることで硬化が開始し、スーパーボールと同程度まで硬化するクッション材です。

 全身疾患、栄養過多や負重性など様々な原因から発症する蹄葉炎では、蹄内部の血液循環が阻害されて蹄骨を吊り下げている葉状層が剥がれ、蹄骨が回転あるいは沈下するなどの症状が知られています。この疾患に対しては、蹄全体で均等に負重させることを目的に蹄底にACSを充填する治療法が一般的です。ACSにはある程度の硬さがあるので、下から沈下する蹄骨を支え、これ以上蹄骨が沈下しないようにする効果が期待できます。しかし、ACS自身には接着力はないため、蹄鉄を装着して挟み込むかベトラップなどで固定する必要があります。

写真4

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まとめ

 馬の装蹄で用いられる充填剤には、それぞれの用途に応じた硬度や接着力が異なる様々な製品が開発されています。蹄の状態に応じて適切な充填剤を正しく使用することで、様々な蹄病や肢勢の矯正に対応することが可能です。しかし、使用に際してはこれら充填剤の特徴や性質を十分に理解しておくことが必要であり、使い方によっては病態や肢勢のさらなる悪化を招くこともあるということを忘れてはなりません。今後、新たな充填剤が開発されることで、今よりさらに多くの症例に対応することが可能となるかもしれません。

日高育成牧場 業務課 装蹄師 津田佳典 

2021年7月27日 (火)

調教後の乳酸値データの活用

乳酸値=疲労物質?

 「乳酸値」という言葉を聞くと、「疲労物質」というイメージを持たれる方も少なくないのではないでしょうか。確かにほんの10年ほど前までは「昨日、久しぶりに運動したら、体中に乳酸が溜まって筋肉痛が・・・」などという会話が良く聞かれたもので、「乳酸の蓄積が疲労の原因」という考え方が一般的でした。ところが、最近の運動生理学では、ヒトのアスリートや競走馬の世界を例にしても、乳酸は「エネルギー源」であり、かつ乳酸を多く出すようなトレーニングをすることで持久力が向上する効果も確認されています。

 すなわち、乳酸はアスリートにとって悪者ではなく、運動する過程で必要なエネルギー物質の1つであり、効率的にトレーニング効果を高めるための指標になり得るということです。

日高育成牧場における乳酸値データの活用

 日高育成牧場ではこれまで、運動後の乳酸値データを定期的に採っており、実際の調教現場で活用しています。過去の本稿でも触れましたが、当場の育成馬を使った調査では、乳酸値を高めるような強調教を行ったことで、V200などの有酸素運動能の指標が高まることなどが確認されています。これ以外にも、乳酸値が運動強度の指標に利用できるという観点から、様々な手法を用いて現場で応用しています。

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坂路調教直後における乳酸値測定のための採血

乳酸値を活用した併走調教の組み分け

 育成馬に対する強調教は、概ね週1もしくは2回実施していますが、その際に頭を悩ませるのが併走馬の組み合わせです。従来は、走行スピード、騎乗者の感覚(手応え)、馬の動きなどを総合的に判断してきましたが、現在ではこれらの目安に調教後の乳酸値を加えて組み合わせを考えています。

 わかりやすいように図に一例を示します。12月20日の調教で、2組のグループが屋内坂路1,000mを1ハロン約18秒平均(上がり3ハロン54秒)で走ってきました。この際の各馬の調教後の乳酸値(単位は全てmmol/L)は、1組目のA馬は9.3、B馬は9.9、C馬は5.7、そして2組目のD馬は5.9、E馬は9.4でした。

 そこで、1週間後の12月27日の調教では各グループを1組目「A馬、B馬、E馬」と2組目「C馬、D馬」に変更し、1組目には1週前と同タイムの指示を、2組目には前回よりも速いタイムを指示しました。その結果、1組目は1ハロン約18秒平均で走り、この際の乳酸値はA馬は12.3、B馬は10.8、E馬は11.3という結果でした。一方、2組目は1ハロン15.5秒平均(上がり3ハロン46.5秒)で走り、C馬の乳酸値は15.1、D馬は14.7でした。2組目については、結果的に調教強度が想定よりも上がってしまいましたが、いずれのグループも1週前と比較するとグループ内の乳酸値に大きな差異を認めなくなりました。

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 我々は、このように乳酸値を活用してグループ分けを行うことで個々の馬に応じた運動負荷を適切にかけることができるのではないかと考えています。

騎乗スタッフとの乳酸値データの共有

 騎乗調教において乳酸値を活用するうえでの欠点の1つは「調教後にしか測定できないこと」で、あくまで前回の調教時のデータを活用せざるを得ないのが現状です。このため当場では、騎乗スタッフが自身の騎乗馬の動きとスピードから乳酸値を推定できるように、毎回の測定データを騎乗スタッフと共有しています。これによって、騎乗者自身がターゲットとなる乳酸値が出るような運動負荷を課すような騎乗をすることを目指しています。

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 近年、人間のアスリートの世界では、乳酸値を活用して運動強度を設定するトレーニング方法が注目されています。競走馬の世界でも同様に注目されており、「どの程度の乳酸値を上げるトレーニング強度が必要なのか」、「乳酸値を上げるトレーニングは何日間隔で行うのが効果的か」など検討課題は山積しています。

 日高育成牧場では、引き続き乳酸値を用いた調教法のデータを蓄積し、これを活用した効果的なトレーニング方法を模索したいと考えています。

※1分間の心拍数が200回に達した時の走行スピードのことで、この数値が高いほど有酸素運動能に優れていると考えられている。

日高育成牧場 業務課 冨成雅尚

ウマにおける生殖補助医療

 サラブレッド競走馬の生産は本交配に限られていますが、世界に目を向けると、乗用馬はもちろんのこと、繋駕競走用のスタンダードブレッドも人工授精や受精卵(胚)移植で生産されており、アルゼンチンのポロ競技馬ではすでにクローン技術も臨床応用されています。残念ながらサラブレッドが主体である日本ではこのような技術が身近ではなく、十分に認知されていません。今回は競馬から離れますが、一般的なウマ生産技術のことも知っていただきたいという思いから、生殖補助医療(Assisted Reproductive Technology, ART)について解説いたします。ARTとはヒトの不妊治療分野でよく耳にする言葉ですが、獣医畜産分野においても胚移植(ET)、体外受精(IVF)、顕微授精(ICSI)など、おおよそ同様のことが行われています。

 まず人工授精(AI)について解説します。AIはARTに含まれませんが、ウマ生産のごく基本的な技術です。メリットはなんといっても馬の輸送が不要であるということです。そのため、労力・コストは大きく削減され、品種改良に大きく貢献します。AIに用いられる精液には生精液、冷蔵精液、凍結精液の3タイプがあり、それぞれの受胎性や保存性などの特徴に応じて使い分けられます。冷蔵精液を用いる場合、一般的に48時間程度は受胎能力が期待できますが、時間的な制約から採取した精液は直ちに輸送、精液の到着後迅速なAIの実施が必要となります。一方、主に国外から優良な血統を導入する目的で用いられる凍結精液は、半永久的な保存が可能である反面、受胎率が低くなることや凍結保存のための特殊な設備が必要であるなどのデメリットがあります。国内でこのようなAIを実施するには獣医師もしくは人工授精師の国家資格が必要ですが、ウマ人工授精師の資格であれば北海道十勝牧場で取得のための講習会が3年毎に開かれています。また現在、国内で精液を入手するためには、乗用馬であれば遠野馬の里、重種馬であれば前述の十勝牧場から精液を取り寄せる他、フランスからの輸入精液を販売する業者(現在国内では3社のみ)を利用する必要があります。

 ウマARTの中で最も一般的に行われているのがETです。これは母馬(ドナー)を妊娠させ、受精後1週間程度でその胚(受精卵)を回収、代理母(レシピエント)に移植するという技術です。優秀な競技馬は15-20歳あたりまで競技および騎乗者の育成に活用されるため、そこから繁殖生活を始めても高い受胎性は望めませんし、産駒数も限られてしまいます。しかし、ETであれば競技生活を送りながら産駒を得ることができるため、既に欧米ではハイクラス・良血の現役競技馬に対して実施されています。この技術の難点は、ドナーとレシピエントの発情周期が一致している必要がある点です。欧米の大規模なレシピエント牧場では繋養頭数が数百頭にも及ぶため、常に最適なレシピエントを選ぶことができますが、レシピエント候補馬の繋養頭数に制限がある日本でETを実施するためには、ドナーとレシピエント双方の発情を同期化するなどの工夫が必要となります。現在、日本でウマのETを実施しているのは、唯一帯広畜産大学のみです。

 体外(シャーレ上)で卵と精子を受精させる手法であるIVFはヒトでは最も一般的なART技術ですが、ウマの精子は体外では卵細胞を覆う透明帯を通過することができないため、実用的な方法ではありません。また、ICSIとはこのIVFをさらに発展させた技術になり、マニピュレーターという専用器具を用いて精子を卵細胞に直接注入する方法のことを指します。精子を注入した受精卵は、実験室内で1週間程度培養した後にレシピエントの子宮内に移植します。ETが1度に1つの胚しか移植できないのに対し、ICSIでは1度に10個前後の卵を採取できること、さらにその採卵処置を最短2週間ごとに繰り返すことができることから、短期間に多くの産駒をとることが期待できます。また妊娠が困難な高齢馬から産駒をとることができる点も大きなメリットです。一方でこの方法は卵巣から卵細胞を吸引回収し、人工的に受精させた受精卵を培養する必要があるため、ETに比べて高い技術やコストが要求されます。現在、国内でICSIを行える施設はありません。

 今回ご紹介したウマARTは、欧米を中心に既に世界各国で研究・実用化されている技術です。この分野において日本は世界に大きく遅れをとっていますが、2017年にフランスからの凍結精液輸入が解禁されたことでハイクラスの乗用馬生産に活路が見出されました。日本でこれらの技術を用いた乗用馬生産を根付かせるためにはまだまだ多くの課題がありますが、今後益々発展し、我が国のウマ産業のさらなる発展に繋がることが期待されます。

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ドナーから胚を回収する様子(ケンタッキー大学にて)

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ドナーから回収された胚

日高育成牧場 生産育成研究室 村瀬晴崇

人馬の信頼関係の強化:引き馬編~リトレーニングプログラムの応用~

はじめに

 昨年の第225号でもご紹介しましたが、JRAでは『引退競走馬のリトレーニングプログラム』の作成に取り組んでおります。プログラムが完成した暁には、『引退競走馬のリトレーニング指針』としての発刊も予定しております。今回は作成中のプログラムの中から、重点項目の一つである『人馬の信頼関係の強化』について2回に分けて紹介させていただきます。第一回目の今回は、『引き馬』をメインにお話することとします。

『引き馬』による信頼関係の構築

 我々のプログラムでは、グラウンドワークと呼ばれる、騎乗せずに地上から馬に働きかける手法を用います。グラウンドワークでは『プレッシャーとプレッシャー解除』を馬に分かり易く伝え、馬の動くスピードと方向をコントロールして人が『リーダー』となると同時に、人の横が『安全で快適な場所』であることを馬が理解するように働きかけます。『引き馬』はグラウンドワークの最も重要な基礎となる作業です。『引き馬』では前後方向にプレッシャーを与え、発進・後退(スピード有り・前後方向)と停止(スピード無し:ゼロスピード)を繰り返します。具体的な働きかけ方は以下の通りです。

  1. 発進

 引き綱(リード)をゆったりと保持し、舌鼓等の音声扶助や長鞭を使用して馬を発進させます。馬がしっかりとした常歩を開始したら後ろからのプレッシャーを解除し、馬の動きに同調して歩きます。徐々に扶助のフェーズ(段階・強さ)を下げ、最終的には扶助を使用しなくても馬が人の前進する動きに合わせて発進できるような関係を構築します。

  1. 停止

 引き運動中に人が馬についていくのをやめ、リードを譲らないことで鼻梁に鼻革があたり、馬が止まるように働きかけます。上手に停止できたらリードを緩めてプレッシャー解除します。最初は(ホー)などの音声扶助も利用しますが発進同様最終的には前触れもなく人が止まったら馬も停止できるような関係を構築します。

  1. 後退

 静止した馬の顔の前でリードの余り部分を回したり(写真1)、鼻面の前に左手をかざして前方からのプレッシャーを与えます。初期段階では、右手でリードを引っ張って鼻梁へ与えるプレッシャーも組み合わせると、後退の合図が馬に伝わりやすくなります。

 馬が人の動きに合わせて停止することを理解できていない、若しくは馬が自己主張している場合は、人の前方に進みすぎて停止します。その際は前方からのプレッシャーを与えて人が肩の位置に立てるところまで後退させてからプレッシャー解除します。この働きかけによって馬は人より前に進みすぎるのは間違いであり、人の横に収まっていれば余計なプレッシャーを受けないこと、つまり人の横が『安全で快適な場所』であることを理解します。また、前触れなく突然人が前進したり停止したりする動きに合わせて動くことで、人に意識を向ける(フォーカスする)ようになります。

 『引き馬』は単純な作業でもあるため軽視され易く、ついつい手を抜いてしまいがちです。馬房掃除で馬を移動させる際に人が前方に立って馬をノロノロ歩かせたり(写真2)、あるいは放牧する際に、馬が勝手に先に進むことを許容してしまったりすることがあります。調教とその他の『引き馬』の違いは、馬を混乱させる原因となり得ます。馬に勝手に動かれてしまうと人は『リーダー』ではなくなり、人馬の位置関係が間違っていることをきちんと馬に伝えなければ人の横が『安全で快適な場所』ではなくなってしまいます。馬を扱う際は常に細心の注意を払い、馬に余計な混乱をもたらさないように意識する必要があると思います。

 次回は馬と人との距離感(パーソナルスペース:支配領域)を利用した駐立の調教についてご紹介します。

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写真1:馬の顔の前でリードの余り部分を回して前方からプレッシャーを与えて後退を促す

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写真2:人が前方に立って馬をノロノロ歩かせ引き馬

JRA馬事公苑 診療所長 宮田健二

若馬の種子骨炎と予後

種子骨炎とは

 種子骨とは、関節部を跨ぐ靭帯あるいは腱構造に包まれている骨を指し、馬では球節の掌側(底側)にある近位種子骨、蹄内の遠位種子骨および膝関節の膝蓋骨などが知られています(図1)。この種子骨の役割は、運動時に骨や腱、靭帯にかかる負荷を分散させることですが、大きな負荷が反復してかかると損傷して炎症が起こると言われています。今回は、このうち近位種子骨の炎症(以下、種子骨炎)について解説します。

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1:馬の種子骨

診断・分類方法

 種子骨炎を発症すると、球節部の腫脹や帯熱の他、跛行(支跛)する可能性があり、発症馬は調教を中止し休養する必要があります。診断は主にX線検査で行われており、重症度にもよりますが、種子骨内の血管孔の状態を示す線状陰影の拡幅や増加、辺縁の靭帯付着部の粗造化や変形および骨嚢胞状の陰影が観察されます。これを基に、近位種子骨のX線画像を異常所見の無いものから順にグレード(G)0~3の四段階に分類(図2)することで、種子骨炎の重症度を客観的に評価できます。これらの情報は、JRAブリーズアップセールをはじめ、多くの若馬のセリ市場の上場馬情報として開示されており、購買を検討するうえで重要な情報の一つとなっています。

2:種子骨グレード(G0:異常所見なし、G1:2㎜以上の線状陰影1~2本、G2:線状陰影を3本以上・辺縁不正、G3:線状陰影多数・辺縁不正・骨嚢胞状陰影、%はJRA育成馬に占めた割合)

治療と予後

 局所の炎症やそれに伴う疼痛(跛行)が著しい場合、球節部の冷却や鎮痛消炎剤の投与が推奨されますが、基本となるのは運動制限(休養)です。また、必要とされる休養期間は、重症度により異なります(軽度:3~4週間、重度:3~6か月)。

予後の調査

 JRA日高育成牧場で育成馬を対象に行った調査では、育成馬の売却時の種子骨炎グレードと売却後に発症した疾病や成績との関連性について報告されています。前肢の種子骨グレードと競走成績の関連についての調査は、競走期のデータが不足している2歳馬などを除外した221頭で行い、前肢の種子骨グレードが高い馬はグレードが低い馬に比べて繋靭帯炎を発症するリスクが高いことが明らかになっています。

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グラフ1:種子骨グレードと前肢繋靭帯炎の発症率の関係

 一方、初出走までに要した日数や、2・3歳時の出走回数ならびに総獲得賞金に関する調査(550頭分)(グラフ2~4)では、種子骨グレードは出走回数や能力に殆ど影響していませんでした。また、一度も出走しなかった馬は9頭いましたが、いずれの原因も種子骨炎ではありませんでした。なお、出走回数や獲得賞金のグラフには一見差があるように見えますが、グレード3の中に活躍馬が含まれているためです

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グラフ2:種子骨グレードと初出走までに要した日数の関係

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グラフ3:種子骨グレードと出走回数の関係 

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 グラフ4:種子骨グレードと総獲得賞金の関係

最後に

 種子骨炎の発症を予防する方法は残念ながら報告されていませんが、JRA育成馬では、治療と休養後に調教復帰し、売却後に出走しています。他の疾患同様、早期発見・早期治療が最も重要となりますので、普段から注意深く馬体や歩様を観察することが重要です。また、種子骨炎を発症したことがある馬に対しては、調教を進めるにあたって定期的に検査を実施し、再発や繋靭帯炎などの続発を防ぐため、状態に合わせた調教、その後の患肢冷却および飼養管理を行うことが推奨されます。

日高育成牧場 生産育成研究室 琴寄泰光

2021年6月16日 (水)

BUセールに向けての日高育成牧場における取り組み

 2020JRAブリーズアップセールは、新型コロナウイルス感染症の拡大を防止する観点から例年行ってきた中山競馬場でのセリ開催や騎乗供覧等を取りやめ、メール入札方式に変更しての開催となりました。異例の開催となってしまいましたが、日高育成牧場におけるJRA育成馬への調教は例年の質の高さを維持しつつ、運動負荷については例年以上の強度で行ってきました。

 本年売却した育成馬に対しては、例年よりやや早めの12月頃より調教のギアを上げ始め、年明け以降も坂路およびトレッドミルを用いて昨年より高強度の調教を実施してきました。グラフ①は、昨年2019年(△)と本年2020年(●)の1月20日前後の屋内坂路ウッドチップコース(1000m)でのスピード(上がり3ハロン平均値)と乳酸値のデータを示します。昨年と比較して本年は坂路でのスピードが速く、調教後の乳酸値が高い、すなわち運動強度が高い調教を課してきたことが分かります。

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グラフ①.昨年と本年の1月20日前後の屋内坂路コースでのスピードと乳酸値

 約1ヶ月後にあたる2月中旬の同じデータをグラフ②に示します。昨年と比較すると本年は全体的にスピードが速い馬が多い一方で、乳酸値が低い傾向にあることが分かります。すなわち、2月時点では本年の育成馬の方が昨年に比較してより体力がある、すなわちグラフ①で示したような高強度の調教を継続した効果が表れたものと推定することができます。

 さらに、走行中の心拍数とスピードから算出されるV200(1分間の心拍数が200に達した際の走行スピードで示され、持久力の指標とされる。値が高い方が持久力に優れている)については、日高育成牧場では例年2月と4月に測定していますが、いずれの月も過去2年に比較して高値を示しており、特に本年4月の703.5m/minという値は過去最高を記録しました(グラフ③)。このように、乳酸値のみならず、心拍数データからも本年の育成馬の体力の高さを伺い知ることができます。

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グラフ②.昨年と本年の2月中旬の屋内坂路コースでのスピードと乳酸値

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グラフ③.過去3年の2月および4月の800ダートコースにおけるV200

 もちろん若馬に対する強運動負荷は、体力向上が期待できる半面、馬体や精神面への悪影響も懸念されます。本年の調教についてはその点を考慮し、強調教の翌日にはハッキングもしくはウォーキングマシンでの常歩調教を行うなど、ダメージ回復に努めました。本年の育成馬の運動器疾患の発症頭数(一定期間の休養を要したもの)が例年と同程度であったことから、本年の強調教による馬体への悪影響は、例年より多かったわけではないと感じています。ただし、牝馬においては例年より食欲の減退が多く認められたことから、調教メニューを組み立てる際にはフィジカル面のみならずメンタル面をも含めた十分なケアと、必要な運動の負荷とを両立させるよう留意することが今後の課題と捉えています。

日高育成牧場 業務課 冨成雅尚

卵巣静止に対するデスロレリン・ブセレリンを用いた発情誘起

 高齢、寒冷、日照や栄養の不足、あるいは生殖器疾患などが原因となり、繁殖牝馬の卵胞が発育せず排卵しなくなった状態のことを卵巣静止といいます(図1)。この卵巣静止に対する治療法としては、デスロレリンやブセレリンといった排卵誘発剤を少量ずつ継続して筋肉内投与する方法が提唱されていますが、今回はそれら治療法の詳細とJRA日高育成牧場での治療例についてご紹介します。

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図1.卵巣静止と診断された卵巣の超音波画像

日高軽種馬農協による調査研究

 排卵促進剤の一つであるデスロレリン(150μgを1日2回筋肉内、卵胞が35~40mmに発育するまで毎日、図2はデスロレリン注射剤)には、卵胞の発育を促進させる効果があると考えられています。2014年から2016年にかけ、柴田獣医師らのグループが87頭のサラブレッド繁殖牝馬を用いて行った調査によると、デスロレリン投与によって卵胞が35~40mmまで発育した繁殖牝馬は68/87頭(78.2%)、その平均治療日数は5.3日(3~14日)であったと報告されています。また、卵胞の発育後、交配から2日以内に排卵した繁殖牝馬は43/46頭(93.5%)と報告されているため、卵胞が発育してしまえばそのほとんどが排卵に至ることは明らかですが、実際に受胎した繁殖牝馬は28/66頭(42.4%)と低い割合にとどまりました。しかしながら、残念ながら不受胎であっても33/38頭(86.8%)が排卵後に正常な発情サイクルを取り戻し、通常の方法での交配に移行できたことも確認されています。

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図2.デスロレリン注射剤(輸入薬)

妊娠中に骨折し、栄養状態が悪くなった繁殖牝馬の一例

 JRA日高育成牧場で繋養する繁殖牝馬のうち分娩後に無排卵状態に陥った症例についてご紹介します。この馬は3歳未勝利で引退した後に繁殖入りし(引退の理由は両後肢の第三中足骨々折)、4歳で受胎しました。しかし、妊娠7ヶ月目に放牧地で両後肢の第一趾骨々折を発症し、骨折部の螺子固定術を実施しています。この馬を管理するにあたり、胎子の健全な発育を優先すると運動量を確保するために放牧管理をしたいところですが、当時は下肢部の状態を考慮すると運動を制限(馬房内休養でウォーキングマシンによる運動のみを負荷)せざるを得ないとの判断に至りました。また、疝痛予防の観点から、濃厚飼料の給餌量も必要最小限まで抑えられました。その結果、症例馬のBCS(ボディコンディションスコア)はみるみる低下することとなりました。翌年3月になんとか健康な子馬を分娩しましたが、この時点のBCSは4点台まで低下しており、分娩後もBCSを増加させることはできませんでした。症例馬の卵胞は、分娩後も約1ヶ月発育せず、排卵もみられませんでした。

 この馬に対して、先にご紹介したデスロレリン投与を試してみたところ、投与開始から9日後の超音波検査で卵胞が35mmまで発育していることが確認されました。そこで、別の排卵促進剤であるhCG(3,000IU)を投与して翌日に交配したところ、交配の翌日に排卵が確認できました。症例馬については、その後も交配2週間後の妊娠鑑定での受胎が確認されています。

 このように、何らかの原因(今回は給与量不足)により卵胞が発育しなくなってしまった繁殖牝馬の治療の選択肢の一つとして、デスロレリンを少量ずつ筋肉内投与する方法が有用であることがわかりましたが、現在のところ、デスロレリン製剤は国内では製造されておらず、海外からの輸入に頼るしかありません。そこで、国産で流通する製剤中で、デスロレリンと同様の効果を有するブセレリンに注目しました。

米国ケンタッキー州ハグヤード馬医療機関での調査研究

 卵胞の発育不全が認められた79頭のサラブレッド繁殖牝馬を用いた調査では、ブセレリン注射剤(図3)12.5μgを1日2回筋肉内投与することにより、卵胞が35~40mmに発育した繁殖牝馬は71%、その平均治療日数は10.42日であったと報告されています。デスロレリンとは異なり卵胞の発育後に排卵まで至ったものは64%とやや少なかったのですが、投与後の受胎率は72%と高い割合を示しました。

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図3.ブセレリン注射剤(国産薬)

ライトコントロールを行っても発情が来なかったあがり馬の一例

 JRA日高育成牧場において、ブセレリンを用いて発情誘起を行った一例をご紹介します。症例馬は6歳12月に競走馬を引退し、翌月より繁殖牝馬として当場に入厩しました。入厩後、すぐにライトコントロールを開始しましたが、3月下旬になっても発情がみられなかったため、超音波検査を行ったところ、左右の卵巣に大きな卵胞が全く存在しないことが確認できました。そこで、ブセレリン投与による発情誘起を試みることとし、国内に流通するブセレリン注射剤であるエストマール注(図1)を前述のハグヤード馬医療機関の報告に沿って投与を開始しました。投与開始6日後より、超音波検査にて卵胞が大きくなり始めたことが確認でき、10日後には排卵直前の基準である35mmにまで育ちました。そこで、排卵誘発剤のhCGを投与した翌日に種付けを行ったところ、種付け翌日のエコー検査で排卵が確認できました。この馬も交配2週間後の妊娠鑑定で受胎していることが確認されています。

 卵巣静止の発症原因は様々ですが、その治療の選択肢の一つとして、今回ご紹介した方法についてもご検討いただけましたら幸いです。今回の方法での治療については、かかりつけの獣医師にご相談ください。

日高育成牧場 専門役 遠藤祥郎

2021年6月13日 (日)

装蹄道具とその手順について

 今回は装蹄に使われる道具と手順について、簡単にご紹介させていただきます。

・装蹄とは・・・

 馬もヒトと同様に爪(馬では蹄と呼ばれます)が伸びますが、通常は伸びた分だけ地面との摩擦で削られてバランスよく一定の長さに保たれています。しかし地面との摩擦が少ない場合、蹄の伸びる量が削られる量より多くなり、蹄は伸び続けてしまうため、定期的に蹄を切る必要があります。一方、蹄の伸びる量より削られる量が多くなる場合、つまり運動量が多い馬や人を乗せる使役馬などでは、蹄がどんどん短くなってしまいます。このような場合は、ヒトの靴に相当する蹄鉄を装着し、蹄を過剰な磨耗から保護しなければなりません。このように蹄を短く切り揃え、蹄鉄を装着する作業のことを装蹄と呼び、これを生業とする人は装蹄師と呼ばれます。

 装蹄師は全国でも約600名しかおらず、JRAにはそのうち35名が在籍しています。これら装蹄師になるためには、栃木県宇都宮市の「装蹄教育センター」という全寮制の学校で1年間のカリキュラムを修了し、装蹄師免許を取得しなければなりません。

・道具

 特殊な作業に使う道具は、普段の生活では見慣れないものばかりです。今回は、代表的な道具をいくつかご紹介します。

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左から、装蹄鎚(そうていづち)、釘節刀(ちょうせっとう)、剪鉗(せんかん)、鎌型蹄刀(かまがたていとう)、削蹄剪鉗(さくていせんかん)、蹄鑢(ていろ)、手鎚(てづち)、火鉗(ひばし)、釘切剪鉗(くぎきりせんかん)、クリンチャーという道具です。装蹄槌は釘を打つハンマー、釘節刀は曲がった釘を起こす道具、剪鉗は蹄鉄を外す道具、鎌型蹄刀は蹄を切る道具、削蹄剪鉗は人でいう爪きり、蹄鑢はヤスリ、手鎚は蹄鉄を叩くハンマー、火鉗は熱く熱した蹄鉄を掴む道具、釘切剪鉗は釘を切る道具、クリンチャーは釘を折り曲げて締める道具です。

・装蹄作業

 最初に蹄の保護のために蹄鉄を装着するとご説明しましたが、蹄鉄を装着すると蹄の代わりに蹄鉄が地面との摩擦で削られてしまうため、定期的に伸びた蹄を削って蹄鉄を新しく交換する作業が必要となります。

 古い蹄鉄を外すことを除鉄といいますが、この作業には装蹄鎚、釘節刀、剪鉗を使用します。まず、釘節刀を曲がっている釘節に引っ掛け、装蹄鎚で釘節刀を叩いてやることで曲がっている釘節を叩き起こします。釘節が真っ直ぐ伸びたら、蹄鉄を剪鉗で挟んで除鉄できるようになります。

 次に鎌型蹄刀、削蹄剪鉗、蹄鑢を使用して、伸びた蹄を切る作業(削蹄)に移ります。まず削蹄剪鉗(爪切りに相当します)で蹄の伸びた部分を大雑把に削切し、鎌型蹄刀で細かい部分を切り揃えた後に、蹄鑢(爪ヤスリに相当します)を使用し、平らに仕上げます。

2_2 鎌型蹄刀で削蹄      焼付け

 削蹄が終わると、新しい蹄鉄をその馬の蹄の形に合わせる作業に移ります。火鉗で蹄鉄をしっかりと固定し、手鎚で叩いて蹄鉄の形を修正していきます。使用する蹄鉄は予め馬蹄形に整形されていますが、馬の蹄形は全て同じではないため、装蹄の際には必ずこの修正作業が必要です。馬の前肢は走行中に進行方向を変える役割を担っているため、方向転換しやすいように丸い形状をしていますが、推進力を担う後肢は地面をグリップするためにひし形の形状をしています。このような前後の形状の違いだけでなく、1頭1頭に微妙な形状の違いがあるため、装蹄師にはこの微妙な形状の違いを読み取り、それぞれの蹄形に蹄鉄の形状をぴったり合わせる技術が要求されます。さらに、乗馬では修正した蹄鉄を熱して蹄に押し付ける焼付けという作業も行います。焼付けは、蹄鉄と蹄の密着性をより高めるために行いますが、殺菌作用が得られるメリットもあります(馬の蹄は熱を伝えにくいので、火傷することはありません)。一方、競走馬の蹄鉄はアルミウムが材料のため、焼付けは行わずに形状修正した蹄鉄をそのまま蹄に装着します。

 蹄に合わせた蹄鉄が準備できたら、ようやく新しい蹄鉄を蹄に打ち付ける作業に移ります。ここで使用するのは、装蹄鎚、釘切剪鉗、クリンチャー、蹄鑢などです。蹄鉄を蹄に打ち付ける際には、蹄釘(ていちょう)を用いますが、1蹄につき4本~6本の蹄釘を使って打ち付けるのが一般的です。蹄鉄を蹄に打ち付けると蹄壁から蹄釘の先端が飛び出した状態になりますが、この状態は人馬にとって危険なため、すぐに釘切剪鉗で飛び出した余分な部分を切り落とします。さらに切り落とした蹄釘の下に溝を彫り、クリンチャーを使って断端を溝の中に折り曲げて埋め込みます。この作業によって蹄釘が蹄壁にしっかり引っかかるようになり、蹄に打ちつけた蹄釘が簡単に抜けないようになります。最後は、仕上げに蹄鑢で蹄釘の断端を滑らかにし終了です。

3_2   釘打ち       仕上げ

・最後に

 装蹄作業は伸びた蹄を切り蹄鉄を馬の形状に合わせ、蹄釘で装着するだけでなく、個々の馬のバランス、肢全体の向きや角度も考慮し、時には疾病があればその疾病に合わせた装蹄をしなければなりません。そのため、知識や技術だけでなく経験も装蹄師にとって必要な、とても大事な要素といえるでしょう。